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雑学 の変更点

ここでは国籍別に当時の軍事や軍事に関係ない事とかの、ミリ姫に関する雑学を取り扱っています。
他のページでは触れないことや、触れるとしても解説が長すぎて本題から逸れてしまうものなどを紹介していきます。

#contents

*アメリカ [#e17d9c86]
**M4中戦車 [#f73f0d21]
#br
米国陸軍制式のM4中戦車、愛称シャーマン
(M4A3から移動してきましたので、現状M4A3系を中心に記述してます)
#br
事を複雑にしているのは、M4からA1-A2-A3-A4なんて順番にモデルチェンジをしていたのではなく、
M4を制式してから国を挙げて大量に造ることになって、たくさんの工場(鋳造能力の可/不可)があり、2種類の燃料、
5種類のエンジン、3種類の主砲があり、それをほぼ同時進行で造って、そこに新型サスペンションやら、改良が加わって
大変な種類になっているのである。

#region("ヴァリエーション クリックで展開")

#table_edit2(,table_mod=open){{
|モデル|英国名|エンジン|燃料|主砲|車体|備考|h
|CENTER:||CENTER:|CENTER:|CENTER:|CENTER:|LEFT:|c
|M4|シャーマンI|コンチネンタル|ガソリン|75|溶接||
|M4コンポジット|シャーマンI|コンチネンタル|ガソリン|75|鋳造/溶接||
|M4(105)|シャーマンIB|コンチネンタル|ガソリン|105|鋳造/溶接|後期のみ|
|M4E8(105)|シャーマンIBY|コンチネンタル|ガソリン|105|鋳造/溶接|HVSS車,後期のみ|
|M4A1|シャーマンII|コンチネンタル|ガソリン|75|鋳造|前期|
|M4A1(76)W|シャーマンIIA|コンチネンタル|ガソリン|76|鋳造|後期|
|M4A1E8(76)|シャーマンIIAY|コンチネンタル|ガソリン|76|鋳造|HVSS車、後期のみ|
|M4A2|シャーマンIII|GM|ディーゼル|75|溶接|レンドリース輸出用前期(英、仏、ソ)|
|M4A2(76)W|シャーマンIIIA|GM|ディーゼル|76|溶接|レンドリース輸出用後期(英、仏、ソ)|
|M4A3|シャーマンIV|フォード|ガソリン|75|溶接|前期|
|M4A3(75)W|シャーマンIV|フォード|ガソリン|75|溶接|後期|
|M4A3(76)W|シャーマンIVA|フォード|ガソリン|76|溶接|後期|
|M4A3(105)|シャーマンIVB|フォード|ガソリン|105|溶接|後期のみ|
|M4A3E2|シャーマンIV|フォード|ガソリン|75|溶接|ジャンボ、後期のみ|
|M4A3E8(76)|シャーマンIVAY|フォード|ガソリン|105|溶接|HVSS車、後期のみ|
|M4A3E8(105)|シャーマンIVBY|フォード|ガソリン|105|溶接|HVSS車、後期のみ|
|M4A4|シャーマンV|クライスラー|ガソリン|75|溶接|前期のみ|
|M4A6||キャタピラー|ディーゼル|75|鋳造/溶接|後期のみ、A4の後継、レンドリース輸出用|
}}
#br
2次大戦当時の技術では、形状に変化を付けれる鋳造の方が跳弾をかせげるので有利とされていた。
しかし鋳造設備の不足でM4A1系のみが鋳造車体。
#br
主砲75は、75mm戦車砲M3、
76は、3インチ(76.2mm)戦車砲M1、
105は、105mm榴弾砲M4
当時の米軍は同じ3インチ口径の戦車砲にM1とM7の2種類があり弾薬が共用できなかったので、補給の都合M1を76と呼ぶことにしていました。
#br
M4を制式採用して訓練し、英国にも送り、そこでシャーマンI戦車となる(シャーマンは米軍の制式名称ではなく英軍の命名)
実戦配備の段階になって、M4A1(英国名シャーマンII)が跳弾のかせげる鋳造で作られていて台数も確保できたので、それを
北アフリカ戦線の英米軍に出したのが始まり、コンチネンタルの航空機用の星型エンジンは生産の効率を上げるためであったが、
空冷で16Lもあるエンジンでは暑いアフリカで安定しなかったのである。
#br
ここで待望の液冷エンジンである。米国の大手自動車会社フォード社が手がけたM4A3中戦車で、エンジンもフォード製「GAA V8」
ガソリンエンジン(450hp)を搭載している。本エンジンは他のM4シリーズのものと比べ低速時のトルクが良くコンパクトながらに整備性.
信頼性共に良好であると判断されA3型は米機甲軍主力戦車として米機甲軍を中心に配備が行われた。制式採用は1943年1月
#endregion
#br
欧州戦線で活躍したのは後期モデル(W付き)。戦訓から弾薬庫を引火性の低い湿式弾薬庫に変更。
製造もクライスラー系列のデトロイト戦車工廠、GM系列のグランド・ブランク戦車工廠での生産に切り替わった。
エンジンはフォード製のまま。
A3型は米機甲軍配備車両ということもあり、主砲には75mm戦車砲「M3」を搭載したM4A3(75)W,
76.2mm戦車砲「M1」を搭載したM4A3(76)W,105mm榴弾砲「M4」を搭載したM4A3(105)の3種類が採用され量産が行われた。
#br
M26パーシングまでの繋ぎとして、装甲厚を倍に強化した派生モデル
M4A3E2 (通称シャーマン・ジャンボ)も活躍した。
ドイツの対戦車砲の潜む道路を進む先導役として歩兵進軍を支援した。ジャンボ突撃戦車と呼ばれることもある。

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戦後も運用が続けられた
#region("戦後の派生モデル クリックで展開")
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M4A3E4 
極東にはティーガーみたいな化け物はいないから75mm砲で十分だねと、高を括っていたら、
朝鮮戦争になってソ連がT-34/85を投入してきたので、あわてて極東にあったM4A3(75)Wを
東京・赤羽にあるGHQが接収した陸軍第一兵器造兵廠に集めて、3インチ砲へ交換したもの
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M4A3E8 (通称シャーマン・イージーエイト)
3インチ砲を搭載した後期モデルM4A3(76)W に新型サスペンションHVSSを採用したモデル
陸上自衛隊にも供与された
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映画でゴジラやガメラやバランと戦ったり、武田鉄矢に「戦車が怖くて赤いきつねが食えるか!!」と言わせたのも、
自衛隊で退役し鉄くずに溶かされ東京タワーの鉄塔にされたのも、みんなM4シャーマン中戦車だったりします。
#endregion
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**軍需品その1 コカ・コーラ [#edb59a22]
戦争中の物資は政府の管理下におかれました。砂糖もそのひとつ。砂糖を使用するコカ・コーラも政府から砂糖の割り当てがありました。
1941年1月に米国政府がコカ・コーラを軍需品として正式認可され、1942年3月から米国工場からの輸送から現地生産へ切替
1943年6月アイゼンハワーが前線の士気維持にコカ・コーラは必要だからと、「弾薬とコカ・コーラ300万本を送れ。また一日20000本コカ・コーラを生産可能な工場を10箇所に建設してくれ」
と参謀長宛に打電。すぐさま軍からコカ・コーラ社へ。これが[[アイゼンハワー]]のMVPのセリフ「あら、お祝いにコーラを300万ケースほどお願いできるかしら~?」の元ネタ
1943年12月に北アフリカの現地でコカ・コーラ供給可能になる。LIFE1943年12月号に掲載されたコカ・コーラ社のクリスマス広告は北アフリカ戦線で兵士がサンタに仮装している風景。
コーラが軍需品扱いなため、現地コーラ工場のエンジニアには軍から技術顧問の扱いを受け、Coca-Cola Colonel(コカ・コーラ大佐)と呼ばれる人も出たそうです。
米軍でコーラの重要性を認識していたのは、[[パットン]]将軍も同じく、転戦する戦地に必ずコカ・コーラ社の技術顧問を随行させ、すぐさまビン詰め工場を設置させたそうです。
**軍需品その2 スパム [#l5ba473a]
連合国間の取り決めであるレンドリース法(武器貸与法)によって、アメリカは連合国各国へ軍需物資を送る役目を担当しました(貰うこともあったけど圧倒的に送る量が多かった)。
レーション(戦闘糧食)も含まれていました。この時代のレーション、早い話缶詰類です。その中に1937年に軍需品になったスパム(塩・香辛料漬けの豚の肩肉)もその一つ。
保存期間が3年あるのもあって、その送った量が半端でなく、重量で1億ポンド(4.5万t)以上送ったのだ。戦地で安定して供給されるのはスパムばかり、毎日繰り返し食べていると、
流石に飽きてくるので、兵士達から「昨日もスパム、今日もスパム、明日もスパム、来週もまたスパム・・・」ということになっていたそうです。
ペルシア回廊を経由してレンドリースされたスパムはソ連にも届く。ソ連では割と評判がよかったらしい。「アメリカ製の靴を履き,アメリカ製生地の軍服を着て,
アメリカ製のトラックに乗り,アメリカ製の缶詰を食べて戦う」なんて言葉があるくらいだそうです。
さらにソ連軍が継続戦争でのレーションとして持ち込み、撤退した残り物のスパムやポークビーンズをソ連よりも食の厳しかったフィンランド軍は喜んで食べていたそうです。
**コカ・コーラの栄光の陰で・・・ [#sfe09e59]
コカ・コーラ社長ロバート・ウッドラフの凄まじいロビー活動と[[コカ・コーラ大佐>アイゼンハワー]]によって米軍兵士の戦友の名を欲しいままにしたコーク。
その陰では、人知れずギリギリと歯を軋ませていた者たちもいた。
そう、ペプシやロイヤルクラウン・コーラ&color(Silver){(日本での知名度はもはや低いが、コーラ味ソフトドリンクでは世界シェア三位)};などの、いわゆる同業他社の面々である。
日米開戦直後、砂糖が戦時統制品として政府によって厳しく管理されていたのは上記の通りだが、軍需物資指定を受けられたコカ・コーラ以外の企業は砂糖の供給を受けられなかったのだ。
当然砂糖がなければ清涼飲料水を作ることはできない。多くのメーカーが戦争という名の嵐が過ぎ去るのを、ただジッと身を縮ませて待っていた。
だが、そんな逆風をものともせずに敢然と立ちあがった一人の男がいた。彼の名はウォルター・マック。ペプシ社を率いる新進気鋭の社長である。
彼は開戦後、砂糖が統制品になると見込んでアメリカ中を駆けずり回り、9万トン近くの砂糖を購入することに成功するが、統制が開始されるや否や流通に政府の介入がなされ確保した砂糖の半分が奪われてしまう。
もはや国内での砂糖確保は不可能だと感じたマックは、砂糖のプランテーションで知られるキューバからの供給を画策する。キューバの農場を買い取って砂糖を生産、輸入しよう!というわけだ。
が、そこにもまた政府の横やりが入った。「合理化」を理由に砂糖を全面禁輸にしてしまったのである。ここまでくると単にコカ・コーラに利益を独占させるための政策にしか見えないが、マックはめげなかった。
「砂糖」は禁輸されたが「シロップ」は適用外であることに目をつけ、メキシコ国境に工場を建ててシロップを使ってペプシを作ったのである。&color(Silver){因みにペプシファンからはマズくなったと評されたそうな・・・};
更にコカ・コーラの独壇場だった兵士達を取り込むべく、カフェ「ペプシ・センター」を設立。兵士ならばタダでペプシが飲め、他にも様々なサービスを受けられるココには多くの兵士が訪れたという。
政府に愛されたのがコカ・コーラなら、政府に立ち向かったのがペプシであった。
#br
しかし戦後、帰国した兵士たちが愛飲したのは戦地で飲んだコークであり、いきおい「アメリカの飲み物」はコークとなり、ペプシはまたも大きく水を空けられてしまう事となる。
そして皮肉なことに、コカ・コーラから移籍してきたアル・スティールの自動販売機戦略によって息を吹き返し、
あれほど対し続けた政府の長にかつてペプシの顧問弁護士だったリチャード・ニクソンが就いたことで、ペプシは「ソ連で初めて発売されたアメリカ製品」となり
後にアップルの社長となり「スティーブ・ジョブズを追い出した男」ジョン・スカリーが仕掛けたペプシチャレンジでコカ・コーラとの熾烈なコーラ戦争を繰り広げる事になるのだが--
その先はミリ姫とは一切関係のない、また別のお話し。

*イギリス [#qac85074]
**軍需品その2 スパム さらに続く [#g4ce24b0]
戦中戦後の英国は食糧輸入率70%(肉類は50%)と非常に高く。戦勝国でありながら戦争が終わっても配給制が続いた。
戦中はレーション(戦闘糧食)だったスパムを米国から大量に輸入することに。ポイント配給制の缶詰の肉類の扱い。
供給充分のスパムは低いポイントのため入手しやすい肉類ということで「昨日もスパム、今日もスパム、明日もスパム、来週もまたスパム・・・」が
イギリスの家庭で起きたのだ。この配給制の時代に育ったコメディアンのモンティ・パイソンのメンバーが1970年に発表した[[『スパムの多い料理店』>https://www.youtube.com/watch?v=bDXUWLeI7M0]]
現代の繰り返し送りつけられる迷惑メールのことをスパムというのはこの一連の話です(笑)
*イタリア [#lb7f9c0a]
**2回の降伏 [#hde7aeac]
1943年、連合国がイタリアに押し寄せると、国王は敗戦による王政廃止されたら困るので降伏を選ぶことになる。
徹底抗戦を主張するムッソリーニは、7月25日、国王派によるクーデターにより軟禁される。
次に首相になった国王派のピエトロ・バドリオ元帥はドイツとは継戦を、連合国とは休戦交渉をしていたが難航。
#br
連合国軍が北上すると、ナチスドイツも進軍し、チロル地方占領、イタリア勢力圏だったバルカン半島、南フランスへ。
さらにローマに向けて進軍すると、国王派は首都ローマを捨て南部へ逃亡する。
#br
ここでヒトラーは盟友ムッソリーニを救出して、占領したイタリアを統治させることを考える。
ムッソリーニ救出を[[シュトゥデント]]に命じる。シュトゥデントらは、暗号を解読しムッソリーニがグラン・サッソの
山中のホテルに幽閉されていることを突き止める。
9月8日に連合国軍[[アイゼンハワー]]が一方的にイタリアの無条件降伏を宣言し、イタリア王国が降伏。
#br
ムッソリーニの身柄は連合国に引き渡されることが確実と見られていた中、降伏から4日後の9月12日に[[シュトゥデント]]の
降下猟兵隊によりムッソリーニは救出され、9月15日にヒトラーと会談し、共和制新国家の樹立に同意し、9月18日には共和ファシスト党創立、
9月23日にはムッソリーニを国家元首とするイタリア社会共和国が建国された。イタリア王国降伏から、わずか半月のこと。
ドイツ勢力圏の北中部がイタリア社会共和国、南部が国王のイタリア王国と分裂、内戦状態になる。
#br
連合国軍優勢なのは変わらない。連合国軍は北上し、1945年4月18日に政府機能をミラノへ移転というか逃亡。
ムッソリーニはスイスへ亡命すべく逃げようとするも、スイスとの国境に近いコモ湖でパルチザンに捕えられ、4月28日
パルチザンによる人民裁判にかけられ即処刑される。
国防大臣[[グラツィアーニ]]元帥によりイタリア社会共和国が降伏し、これでイタリア2回の降伏。
#br
2回降伏したけども、過去ムッソリーニが復活したことで信用しない人たちもいるので、生存説払拭のため、
4月29日ミラノへムッソリーニの遺体が運ばれ、ロレート広場で逆さ吊りで晒しものにされた。
#br
ヒトラーはムッソリーニが逆さ吊りで晒しものにされたことを知り、自身はこのような目にはあいたくないと、
エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げ、翌30日には夫婦で服毒自殺し、武装親衛隊によりガソリンで火葬された。
#br
ムッソリーニ逆さ吊りをヒトラーが嫌がったこと、これがゲームでの逆さ吊り大破[[ヴィットマン昇]]の
元ネタとなっていると思われる。
*カナダ [#of9a06ba]

*ソビエト連邦 [#xd8c9f02]

**構成共和国 [#y42042e0]
ソ連はデカい、とにかくデカい。
現在のロシアでも世界一の面積を有する国なのに、ましてやソ連となると現在のロシアにさらに30%ほど面積を増やしたようなものである。
これほどデカくて民族もバラバラな国を効率的に中央集権化するための独自の工夫として、ソビエト連邦''の中に''民族ごとに区分けした、独自の国歌や共産党を持つ「ソビエト社会主義共和国」(SSRと略される)が15ヶ国存在していた。
これらの国を少し紹介するのと、ついでにソ連期に活躍した著名な人物も紹介してみる。

|CENTER:|CENTER:|CENTER:|CENTER:|LEFT:|c
|東欧|国名|首都|支配政党|備考|
|~|ロシア|モスクワ|ソビエト連邦共産党|正式国名は''ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国''&br;歴史的にも珍しい連邦の中にある連邦である。超Sレア国家。唯一国号が違う連邦制なので略称はSFSR。&br;ここだけ独自の共産党や国歌を持たず、ソ連共産党が直接指導していた。実質的なソ連の中核。&br;この当時のロシアSFSRを構成していた自治共和国はソ連崩壊後に格上げされ、現在のロシア連邦を一部構成している22共和国(クリミアを含むと23共和国)となる。&br;&br;著名なロシア人-[[ジューコフ]]、[[コーネフ]]、[[ヴァシレフスキー]]、モロトフ、ブレジネフ、ガガーリン|
|~|ウクライナ|キエフ|ウクライナ共産党|正式国名は''ウクライナ・ソビエト社会主義共和国''&br;首都は当初キエフだったが、ウクライナ民族主義を恐れたスターリンがウクライナの歴史的首都であるキエフからロシア系が多いハリコフに移した。&br;ホロドモールやって&color(Silver){多数のウクライナ人のついでに};民族主義を根絶した後は安心して1934年にキエフに戻した。&br;巨大な大穀物地帯として有名でWW1でもWW2でもドイツが重要視した。&br;しかしフルシチョフ時代にルイセンコ農法(遺伝子否定のインチキ科学)をやらかした所為で作物が壊滅し、カナダから小麦を輸入する羽目になる。&br;&br;著名なウクライナ人-[[ティモシェンコ]]、エリョーメンコ、モスカレンコ、フルシチョフ、ジダーノフ、コロリョフ|
|~|白ロシア|ミンスク|白ロシア共産党|正式国名は''白ロシア・ソビエト社会主義共和国''=現ベラルーシ。&br;昔の表記の名残により白ロシアと表記される。&br;当時の名称をわかりやすくラテン文字で表記すると、Byelorussiaとなっており日本語で表記するとベロルシアもしくはベロロシアとなる。&br;これを直訳すると白ロシアという意味になり、実際に昔の日本ではこう表記されていたが、白ロシアがソ連から独立するとロシア語表記であるByelorussiaから、ベラルーシ語表記であるBelarusに変えたため、日本においても訳さずにそのままの表記であるベラルーシと表記されることになった。&br;結局のところ表記を変えただけなのでベラルーシ語でのベラルーシという言葉の意味は白ロシアという意味のままである。&br;独ソ戦時においては真っ先に占領されたためベラルーシ人の徴兵数は凄く少ないが、全土が戦場になったため国土と人口比率がぶっ壊れた。&br;&br;著名なベラルーシ人-ソコロフスキー、グロムイコ、ショスタコーヴィチ、スホーイ、テレシコワ|
|~|モルドバ|キシニョフ|モルドバ共産党|正式国名は''モルダビア・ソビエト社会主義共和国''&br;旧ルーマニア領モルドバで、独ソ不可侵条約の時の秘密協定でソ連の勢力圏とされた、ついでに勢力圏外の北ブコヴィナも取ったら外交問題になった。&br;住んでるモルドバ人はモルドバ方言のルーマニア語を話すルーマニア人そのものだったが、ソ連政府がまったく別の言語を話すまったく別の民族であるということに無理やりしてしまった。&br;そのため今でも別民族なのかどうか、もし同じだとしたらルーマニアに一部になるのかどうかなど、政治的な問題になっている。&br;&br;著名なモルドバ人-フルンゼ、ルチンスキー|
|カフカース地方|グルジア|トビリシ|グルジア共産党|正式国名は''グルジア・ソビエト社会主義共和国''&br;日本語における国名がジョージアに変わったが、当時の表記はグルジアなのでグルジアと書いておく。&br;ご存知我らが筆髭の御大ヨシフ・スターリンの出身地、ついでにバグラチオン作戦の由来であるピョートル・バグラチオン将軍はここの元王族。&br;ソ連崩壊時にちょっとオセット人とアブハズ人弾圧したらロシアにキレられて領土取られて、独立後バルト諸国以外で最初に反露国家になった。&br;&br;著名なグルジア人-スターリン、ベリヤ、カーメネフ、ベリーエフ、シェワルナゼ|
|~|アルメニア|エレバン|アルメニア共産党|正式国名は''アルメニア・ソビエト社会主義共和国''&br;トルコに割譲されたカルス地方はアルメニアのものであるとスターリンに直訴し、ソ連政府に領土要求させた希有な構成国。&br;ソ連が崩壊する前からソ連構成国同士なのにアゼルバイジャンと戦争になったり血の気が多い&br;実は独ソ戦にかなり貢献しており、30万人から50万人が出征し半数が戦死している。&br;さらには非ロシア人でありながら4人も元帥に任命されていてなおかつ、ソ連史上3人しかいない海軍元帥の1人であるイワン・イサコフもアルメニア人である。&br;この様な経緯があるからなのかめっちゃ強い、独立後の戦争で圧倒的に数で優勢なアゼルバイジャン追い出してナゴルノ・カラバフを実行支配している。&br;ちなみに文明としての歴史も長く、世界で初めて国教を定めた国だったり首都が世界最古の都市の一つだったり、ワイン発祥の地でもある。&br;&br;著名なアルメニア人-バグラミャン、ババジャニャーン、アナスタス&アルチョム・ミコヤン兄弟、ヴァルタニャン、ハチャトゥリアン|
|~|アゼルバイジャン|バクー|アゼルバイジャン共産党|正式国名は''アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国''&br;総統も欲しがったバクー油田で有名、今でも石油が取れるので超金持ち国家。&br;イラン以外では唯一イスラム教シーア派が多数派の珍しい国。&br;実はアゼルバイジャンの主要民族であるアゼリー人は国内に800万人ほどしかいないが、国外のイランには最低でも1200万人ほどおり自国よりも遥かに多く居住している。色んな意味で珍しい国。&br;&br;経済面ではソ連を建国・戦争・崩壊の時まで支え続けていたが、独ソ戦時に活躍した著名な軍人や政治家はいない。|
|中央アジア|カザフ|アルマ・アタ|カザフスタン共産党|正式国名は''カザフ・ソビエト社会主義共和国''=現カザフスタン。&br;ソ連と比べるとロシアが小さく見える最大の原因、現在のカザフスタンは世界最大の内陸国であり、ここだけで日本が4つ5つ入るぐらいの(面積的な意味で)超大国、ソ連の領土の2割ぐらいがカザフ領だった。&br;スターリン時代は少数民族の&color(Silver){強制};移住先として大人気だったので、今でも普通なら絶対いないであろう民族が大量に住んでる。&br;&br;著名なカザフ人-クナーエフ、アブディリディン|
|~|キルギス|ビシュケク|キルギス共産党|それぞれの正式国名は&br;''キルギス・ソビエト社会主義共和国''=現キルギス&br;''タジク・ソビエト社会主義共和国''=現タジキスタン&br;''トルクメン・ソビエト社会主義共和国''=現トルクメニスタン&br;''ウズベク・ソビエト社会主義共和国''=現ウズベキスタン&br;独ソ戦にも大して関わっておらず、ソ連時代に活躍した著名人もほとんどいない。&color(Silver){ぶっちゃけ地味。};|
|~|タジク|ドゥシャンベ|タジキスタン共産党|~|
|~|トルクメン|アシガバード|トルクメン共産党|~|
|~|ウズベク|タシュケント|ウズベキスタン共産党|~|
|バルト地方|リトアニア|ヴィリニュス|リトアニア共産党|それぞれの正式国名は&br;''リトアニア・ソビエト社会主義共和国''&br;''ラトビア・ソビエト社会主義共和国''&br;''エストニア・ソビエト社会主義共和国''&br;被害者三国。被害者側なので特にソ連で活躍した著名な人物もおらず、ソ連崩壊時に真っ先に独立した。&br;&br;これだけではさすがにアレなので豆知識。&br;独ソ不可侵条約の秘密条項の当初の予定では、リトアニアはドイツに併合される予定だった。&br;ドイツ軍の進行速度が早すぎたのと伝達ミスで本来ソ連領になる予定だったポーランド領まで間違えて取ってしまったので、その代わりにリトアニアは犠牲になったのだ。|
|~|ラトビア|リガ|ラトビア共産党|~|
|~|エストニア|タリン|エストニア共産党|~|

**兵科元帥 [#ba0deace]
[[ロトミストロフ]]の最終階級の「戦車兵総元帥」は耳慣れぬ階級だと思う諸兄が多そうなので、ここで解説しておく。
#br
ソ連軍ではドイツ軍やイギリス空軍をモデルにそれぞれの兵科の専門家として、砲兵・航空・戦車隊・通信隊・工兵隊のそれぞれに元帥があり、その上に兵科総元帥が置かれていた。
元帥というのだから普通の元帥と同じぐらい偉いのかと思いきや、実際は上級大将ほどであり普通の元帥よりは下位だった。
紛らわしい事に、兵科元帥の上位階級は兵科総元帥なのだが、同時に兵科元帥と兵科総元帥は上級大将と同級なのである。
この階級制度にはソ連も紛らわしいと感じたのか、戦後になってから兵科元帥・兵科総元帥の階級にされる者は極端に少なくなり、通信隊総元帥と工兵隊総元帥なんかは最後まで誰一人として任命されなかった。
#br
最終的には、ソ連崩壊後のロシアの軍事改革により兵科元帥と兵科総元帥は上級大将に吸収され、完全に消滅した。

**一歩も下がるな! [#ob465157]
で有名な「ソ連国防人民委員令第227号」と督戦隊、「ソ連軍では味方によって後ろから撃たれる」という赤軍をとても印象付けるものなのだが、
実は督戦隊は1942年7月28日から同年11月29日のたった3ヶ月間しか存在していなかった。
この命令は元々は愛国心を煽り士気を高めようと目論んで出されたのだが、実態は被害が増え続け兵士から司令官までの全階級から不評で逆に士気が下がっていた。
#br
最終的に約1000人以上が督戦隊により射殺されたが、1942年10月に正規の督戦隊はひっそりと解散し、1944年11月29日には督戦隊は公式に解散した。

**銃は二人に一丁? [#g8ea0c45]
よく勘違いされていることだが「銃は二人に一丁」状態だったのは初戦の大敗からスターリングラード戦中盤までであり、戦線が安定してきたスタグラ戦の後半以降はちゃんと一人一丁持てるようになっている。
さらに戦争後半には精鋭部隊を中心に半自動小銃SVT-40やPPSh-41短機関銃なども受領されるようになり、兵器の質もドイツ軍と大差なくなり、初戦に比べ状況は圧倒的に改善されていた。
「銃は二人に一丁」状態になった理由は、初戦の大敗時の大包囲によって数百万もの兵士と共に何百万もの武器が鹵獲されてしまったからであり、平時からそこまで酷い状況ではなかった。

**高級将校でも敗北したら粛清 [#q90ff037]
というのは間違いであり、ソ連でも他の国と同じようにそれなりに大切に扱っている。
さすがの筆髭の御大でも戦時中にはそんなにポンポン粛清したりはしない。
#br
例えばセヴァストポリ要塞包囲時の指令官イワン・ペトロフは、降伏寸前の要塞から政治将校と共に潜水艦に乗り部下を置いて逃げ出したが、その後も部隊を指揮し続けている。(当然ながら評判が最悪になり兵士達から滅茶苦茶嫌われた。)
対照的に唯一粛清されたと言えるのは、開戦時に運悪く西部戦線の司令官になってしまっていたドミトリー・パヴロフである。
開戦時の反撃するなという筆髭の命令によってまともに戦うことが出来なかったにも関わらず「たった一週間で白ロシア共和国の首都であるミンスクを失陥した」責任を取らされ銃殺されてしまった。
なお1956年に銃殺された原因である反逆容疑に関しては名誉回復されたが、敗戦については名誉回復されておらず、現代のロシアでも「あの状況なら善戦した方だ」な名将か「あの戦力ならまだ持ち堪える事が出来た筈だ」な愚将かの評価が分かれている。
#br
他にも[[ジューコフ]]や[[コーネフ]]&color(Silver){(は銃殺が検討されたが)};も何回か敗北しているが、特にお咎めなどは無くそのまま指揮し続けている。

**赤軍司令官の年齢 [#v80cab9a]
ドイツには1900年生まれの弱冠45歳で第12軍の司令官となり少年将軍と呼ばれた[[ヴェンク]]がいるが、一方ソ連には大量かつ、とんでもないほど若い少年将軍がいた。
先にドイツ軍司令官の生年と元帥就任年齢を例として覚えておこう。
[[マンシュタイン]]が1887年生で元帥就任が55歳、若い事で有名な[[ロンメル]]が1891年生で元帥就任51歳と、それに加えて以下ミリ姫に出てない元帥を数人ほど列挙する。
ブロンベルク1878年生(1936年61歳で元帥就任)・カイテル1882年生(1940年57歳で元帥就任)
レープ1876年生(1940年63歳で元帥就任)・ボック1880年生(1940年59歳で元帥就任)
ヴィッツレーベン1881年生(1940年58歳で元帥就任)・ライヒェナウ1884年生(1940年55歳で元帥就任)
ルントシュテット1875年生(1940年64歳で元帥就任)
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本題に入るが、ソ連にはマルキアン・ポポフという司令官がおり、生年は1902年となんとヴェンクよりも2歳若い!
さらに、ヴェンクは''軍''(軍隊・兵力の単位)の司令官であるが、ポポフはなんと開戦時の1941年で弱冠''39歳''で、さらに''戦線''司令官である。
ソ連における戦線とはドイツ軍における''軍集団''規模の単位であり、これは''ヴェンクがA軍集団や中央軍集団を指揮しているようなもの''である。
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さらにさらに戦線規模での司令官ではアンドレイ・エリョーメンコという元帥が''最年長''だったが、なんと''ロンメルより1歳年下''の生年1892年で、終戦時でも''53歳''だった。
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どうしてソ連と他の国では親子程もの年の差が離れているのだろうか?
なお、上述の文で一瞬でも「大粛清があったからだろw」とか思った方にはシベリアへの片道切符が届きましたので、どうぞごゆっくり。
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シベリア送りにならなかった人は、大粛清以前のソ連最初の5大元帥の生年と1935年の元帥就任時の年齢を見てみよう。
生1893年トゥハチェフスキー(''就任時42歳'')・生1889年ブリュヘル(''就任時46歳'')・生1883年ブジョーンヌイ(就任時52歳)・生1883年エゴロフ(就任時52歳)・生1881年ヴォロシーロフ(就任時54歳)
ブジョ・エゴ・ヴォロはドイツの将軍と比べて少し若い程度だが、トゥハとブリュがかなり若いことがわかるし、当然ながら元帥になる前に戦線級の軍を動かしている。
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上記から、革命によって生まれた国を守る革命軍である赤軍は、建軍時点ですでに革新的な思想を持つ若者達によって形作られており、ドイツ司令官と同年代の司令官達はほぼ全員が内戦時に白軍に移り、赤軍にいたのは若者が大多数だったから、ここまで軍全体が若くなったということがわかる。
現に元ロシア帝国軍大佐にして師団長でもあったボリス・シャポシニコフソ連元帥は1883年生まれで元帥就任時58歳と、ドイツの将軍とも釣り合っている。

他にも、[[ジューコフ]]が1896年生まれで1943年に46歳で元帥就任、[[ティモシェンコ]]が1895年生まれで1940年45歳で元帥就任など、まだまだ若い事がわかる。
もっと若いが戦死してしまった、1901年生まれのニコライ・ヴァトゥーチンや1906年生まれのイワン・チェルニャホフスキーなど、1900年代生まれの戦線司令官も多数いた。
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これらの事を踏まえて言うなれば、この時代のソ連軍はまさしく、能力だけが物を言う叩き上げの軍隊だったのだ。
&color(Silver){戦後になると革命から時間が経って党も軍も保守化して、他国と同じどころかより強い老人支配になったのは内緒だゾ};
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**地名がわからない!? [#v9f24f04]
ロシア語、ドイツ語、英語の発音の違いの言語的なものもあるが、事を面倒臭くしているのが共産党による地名の変更。
当時はスターリンを中心に革命家や共産党幹部の名前にちなんだ地名が多かったが、フルシチョフのスターリン批判により個人崇拝が否定され、スターリン(と取り巻き)にちなんだ地名は変えられた。
さらにソ連が崩壊した時に残っていた革命家や共産党員にちなんだ地名も帝国時代の名前に戻したり、ソ連色を排除しようとする政治的な要因で新しく名付けたりしたため、現在のロシアにはソ連時代の地名のものはほとんど残っていない。
地名の変更をまとめると「帝政期→革命直後→スターリン期→スターリン批判後→ソ連崩壊後」の5つのパターンに分かれており、これによって一部地名が何度も変わっていたり分かり辛くなっている。
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#table_edit2(,table_mod=close){{
#table_edit2(,table_mod=open){{
***ロシア [#pf75858c]
|戦中の地名|現在の地名|戦線|Google|備考|h
|180|180||CENTER:|LEFT:|c
|スターリングラード|ヴォルゴグラード|3-1-C 3-2-C|[[map>https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2+%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E5%B7%9E+%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89/@48.6700797,44.2265278,10z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x41053375b85b7667:0x880d179cce57da41?hl=ja]]|ロシア帝国時代の地名はツァリーツィン、スターリンにちなみスターリングラードにしたもののスターリン批判が起こり、ヴォルガ川にちなみヴォルゴグラードに改名された。|
|レニングラード|サンクトペテルブルク|7-1-U 7-2-Z 7-4-司令部|[[map>https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2+%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B0/@59.9390094,29.530289,9z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x4696378cc74a6f9d:0xfa47ca5a4725c9e4?hl=ja]]|元はロシア帝国の首都サンクトペテルブルク、WW1中は敵国であるドイツ的な名前を避けペトログラードという名称にしていたが、ロシア革命が起きた聖地としてウラジーミル・レーニンにちなみレニングラードに改名された、ソ連崩壊によりサンクトペテルブルクに戻された。なお州としての名称は現在もレニングラード州のままである。|
|スヴェルドロフスク|エカチェリンブルク||[[map>https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2+%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AF%E5%B7%9E+%E3%82%A8%E3%82%AB%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B0/@56.813891,60.6549335,10z/data=!4m2!3m1!1s0x43c165eaa062db4b:0xd50243d7f7567f20?hl=ja]]|革命家にしてソ連の初代国家元首ヤーコフ・スヴェルドロフにちなみ改名された、ソ連崩壊後に元の地名に戻されたが、州としての名称は現在もスヴェルドロフスク州となっている。|
|モロトフ|ペルミ||[[map>https://www.google.co.jp/maps?ll=58,56.316667&q=58,56.316667&hl=ja&t=m&z=12]]|モロトフ=リッベントロップ協定で有名な外相ヴャチェスラフ・モロトフにちなみ1940年から使われていたが、1957年にフルシチョフとの政争で敗北し失脚したことにより、元の名称に戻された。|
|カリーニン|トヴェーリ||[[map>https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2+%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AA%E5%B7%9E+%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AA/@56.859633,35.8894701,10z/data=!4m2!3m1!1s0x46b687ab1d6c94f3:0xf42b3a95f433bc9c]]|カリーニングラードと同じく革命家ミハイル・カリーニンにちなんで名付けられた、独ソ戦時にはドイツ軍が2ヶ月ほど占領したがパルチザンの大規模な蜂起によりかなりの損害が出ている、激しい戦いで市街はほぼ廃墟と化したがヨーロッパで最初に解放された大都市となった。|
|クイブィシェフ|サマーラ||[[map>https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2+%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%A9/@53.260908,50.198077,9z/data=!4m2!3m1!1s0x416618e22bd879d3:0xba95cda9bb3a030b]]|革命家ヴァレリアン・クイブィシェフにちなんで名付けられた、独ソ戦中は戦車や戦闘機などの大量の兵器を生産し続けソ連の勝利に貢献した。|
|ゴーリキー|ニジニ・ノヴゴロド||[[map>https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2+%E3%83%8B%E3%82%B8%E3%83%8B+%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%89%E5%B7%9E+%E3%83%8B%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%89/@56.29274,43.9267452,10z/data=!4m2!3m1!1s0x4151d5f9ee033251:0x28d3c0cf849657aa]]|軽巡洋艦の名前にもなったプロレタリア文学作家マクシム・ゴーリキーにちなんで名付けられた、自動車を中心に軍需品を生産していた。|
|チカロフ|オレンブルク||[[map>https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2+%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%B7%9E+%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF/@51.7909394,55.1024233,10z/data=!4m2!3m1!1s0x417bf7b0995fd495:0xdbd8a07200d6a3]]|著名な飛行士ヴァレリー・チカロフにちなみ改名された。|
***ウクライナ [#k6e6e2a2]
|戦中の地名|現在の地名|戦線|Google|備考|h
|180|180||CENTER:|LEFT:|c
|スターリノ|ドネツィク&br;&size(10){(ウクライナ語)};&br;ドネツク&br;&size(10){(ロシア語)};|3-1-K 3-3-B|[[map>https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A+%E3%83%89%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%AF/@47.9901175,37.7615206,10z/data=!4m2!3m1!1s0x40e0909500919a2d:0x36335efdc5856f84?hl=ja]]|ロシア帝国時代の名称はユゾフカ、1924年から1961年まではスターリンによる個人崇拝の一環でスターリノとされていたが、スターリン批判によりドネツ川にちなんだドネツクに改名された。|
|ヴォロシロフグラード|ルハーンシク&br;&size(10){(ウクライナ語)};&br;ルガーンスク&br;&size(10){(ロシア語)};|3-1-J 3-3-I|[[map>https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A+%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%AF/@48.5800641,39.3569675,10z/data=!4m2!3m1!1s0x411fc564844c6285:0xf8e02e7e879e7164?hl=ja]]|KV戦車の語源でも有名な、ソ連の最初の5人の元帥の内の一人クリメント・ヴォロシーロフ元帥にちなみ1935年に改名された、政治的な理由で何度も改名されており、1958年にルガーンスク、1970年にヴォロシロフグラード、1990年にルガーンスク、1991年にソ連が崩壊してウクライナが独立すると、ウクライナ語のルハーンシクとなった。|
***中央アジア [#yb74ca29]
|戦中の地名|現在の地名|戦線|Google|備考|h
|180|180||CENTER:|LEFT:|c
|フルンゼ|ビシュケク||[[map>https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2+%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89+%E3%82%BD%E3%83%99%E3%83%84%E3%82%AF/@55.0764621,21.8799896,12z/data=!4m2!3m1!1s0x46e47236e6c9c77b:0x610c8aae44ae2246?hl=ja]]|ロシア帝国時代はピシュペクという地名だったが、トロツキーによる設立直後の赤軍の司令官であるミハイル・フルンゼに因み改名されキルギス・ソビエト社会主義共和国の首都となった、ソ連崩壊後に独立したキルギス共和国によりキルギス語的なビシュケクに改名された。|
|スターリナバード|ドゥシャンベ||[[map>https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3+%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%99/@38.5613239,68.781581,11z/data=!4m2!3m1!1s0x38b5d16fd27bf89b:0xddf9378ddea1fd44]]|タジク・ソビエト社会主義共和国(現タジキスタン共和国)の首都、1929年に「スターリンの町」を意味するスターリナバードと言う名だったが、例に漏れずスターリン批判によって1961年に元の地名であるドゥシャンベに戻された。|
***旧ドイツ [#hc41308a]
|戦中の地名|現在の地名|戦線|Google|備考|h
|180|180||CENTER:|LEFT:|c
|ケーニヒスベルク|カリーニングラード||[[map>https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2+%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89/@54.7115287,20.3244466,11z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x46e33d8d4b7c21a9:0x5050960016126ed3?hl=ja]]|ソ連による占領後に正式にロシア・ソビエト共和国に編入され、当時の国家元首ミハイル・カリーニンにちなんだカリーニングラードに改名。なおザームラントはケーニヒスベルクのあった半島の名前|
|ティルジット|ソヴィエツク||[[map>https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2+%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89+%E3%82%BD%E3%83%99%E3%83%84%E3%82%AF/@55.0764621,21.8799896,12z/data=!4m2!3m1!1s0x46e47236e6c9c77b:0x610c8aae44ae2246?hl=ja]]|1945年にソビエトの支配を記念して改名された。|

}}
#br
*ドイツ [#c0880016]
**ドイツ"標準"語 [#i6531728]
マルティン・ルターのドイツ語訳聖書の出版により、書き文字のドイツ語は聖書がデファクトスタンダードとなったが、発音はそうはいかなかった。
1871年、ドイツ統一が果たされた後も、発音の標準化はまだまだほど遠い状況であった。
(日本で言えば標準語がなく、東北弁と関西弁と九州弁があるという状況を想像してみると分かりやすいかもしれない。)
#br
さてこの状況に困ったのが演劇を公演する劇団である。
各地を回って公演しようにも地方によって発音が大きく違ってはセリフが観客に伝わらない。オマケに役者の演技にも支障が出た。
そこで詩人で小説家で劇作家でもあったゲーテは舞台の上での発音を統一した標準語を作ろうと各方面に呼びかけ、演劇での統一された発音が完成。
1898年になると言語学者と舞台関係者が集まり、ドイツ語発音の標準体系が考案され、学校教育などに取り入れられた。
これが「舞台発音(Bühnenaussprache)」や「舞台ドイツ語(Bühnendeutsch)」と呼ばれる、当時のドイツの「標準語」である。
「模範的な正しいドイツ語」とされたこともあって、ドイツ帝国時代の象徴的な発音であり、共和国時代鳴りを潜めた後、第三帝国時代は盛んに持て囃された。
#br
さてこの舞台発音は標準化するものの舞台という場面の特性上、現代口語のドイツ語では母音化するはずの"r"がはっきりと巻き舌で発音される。
もちろん日常会話では堅苦しく言いづらいのでこの発音はもっと砕けたものになるが、
舞台や公的な場の発言である議会演説などの場面や、辞書での発音記号はそのまんま残った。


好例が銃器メーカーの「Mauser」社で、標準的な発音によれば「マウザー」であるが、
お硬い現地のドイツ軍人の発音を聞いたり辞書の表記から、日本の陸軍やそれを元にした書類では長らく「モーゼル」と表記・発音されてきた。
火器の発射命令である„Feuer!“も、「フォイア!」よりもお硬い発音の「&color(Silver){%%ファイエル%%};フォイエル!」になるのである。
他にもイーザーローン(Iserlohn)がイゼルローン、バイヤーライン(Bayerlein)が[[バイエルライン]]という具合に発音される。
また、かの有名なドイツ戦車Pz.Kpfw. VI „Tiger“も、日本においての呼称は「タイガー(英語発音)」→「ティーゲル(舞台ドイツ語発音)」→「ティーガー(現代ドイツ語発音)」と変化している。
&color(Silver){なので、歴戦のミリオタ諸兄はこの戦車のことを何と呼ぶかで歳がバレるゾ};
#br
なおこの舞台式発音記号は独和辞典などでは90年代ころまで残っていた。
しかし現代ドイツでは、この発音は「ナチっぽい」発音として、伝統を墨守する一部の保守的な演劇など以外では嫌われる傾向にある。&color(Silver){日本語ニ喩フレバ、現代日本ニ於テハ舊字體・舊假名遣ヒ・文語體ナドニ、「戰前・戰中」ノ印象ガ付與サレテヰルニ似タルベシ。};
みんなもドイツに行ったら白い目で見られないよう、rの発音には注意しようね!

**ゲームのキャッチコピー「前進あるのみ!後退なんてありえない!」 [#wbfa7047]
元はドイツ語の „Vorwärts immer - Rückwärts Nimmer!“(意味は↑とほぼ同じ。VorwärtsとRückwärts、immerとNimmerという正反対の語句を並べて、さらに綺麗に韻を踏んでる)
ユーターボーグ(Jüterbog)にあった 砲兵学校(Feldartillerieschule)のモットーだそうで、戦後東ドイツのホーネッカー議長のモットーに。
#br
**ドイツの歌 [#kd43f15a]
現在のドイツ(連邦共和国)の国歌ですが、実はドイツの歌の3番。国際試合の国歌斉唱も3番。現在は1番は公式には歌っちゃいけないんですよ。
公式に歌われない1番にはドイツの領土意識があって、この認識が1次大戦、2次大戦になったようなもの。
神聖ローマ帝国の流れを汲む、プロイセン王国、ドイツ帝国の領土意識。
#br
♪マース川からメーメル川まで、エッチュ川からベルト海峡までドイツよ、ドイツよ♪(以下略)
#br
(そして2番はというと、基本的に「ドイツの女性とワインは超サイコー!」とあまりにも内容がなく、国歌としてそぐわないにも程があるという理由で歌われない。
そりゃまぁ国歌が女と酒の歌というのではドイツのイメージにも合わないだろうが。)
#br
***マース川 [#o4254571]
現在の西のフランスとの国境はライン川、マース川よりも東側。このライン川とマース川の間がアルザス=ロレーヌ(独・エルザス=ロートリンゲン)地域、フランスとドイツが争うこと300年以上。
産業革命でアルザス=ロレーヌ地域から産出される石炭、鉄鉱石もあるってことで戦略的にも重要な地域で、フランスが30年戦争で神聖ローマ帝国から割譲されたのが1648年、1870年普仏戦争でプロイセンが奪回、1次大戦後フランス領、2次大戦フランス降伏でドイツ領、ナチスドイツ降伏でフランス領。
30年戦争が始まった頃は日本は大坂の陣終わった頃。アルザス=ロレーヌ地域の奪い合いは日本の江戸時代よりも長いw
#br
この地域の言語はドイツ語系のアルザス語。ワインも白が多く、キリスト教もプロテスタントとカトリックが共存してるから、文化的にみればドイツに近いんだけど、現在はフランス領。ドイツ人からするとフランスっぽいところが多分にあるらしい。アルザス=ロレーヌの人たちの中にはドイツ人でもフランス人でもなく、アルザス人、ロレーヌ人だという民族感情みたいになっているそうです。
最近では有名なサッカー監督のアーセン・ベンゲル氏もこの地域のライン川西岸のストラスブール出身。テレビではフランス人と報道されますが、見た目の身体的特徴はドイツ人、言語でみると母語であるアルザス語に加えて、フランス語、ドイツ語、英語のマルチリンガル、1年半名古屋に居たので日本語もちょっとわかる国際人。
#br
戦後ドイツとの戦争をしないようにするために欧州石炭鉄鋼共同体を設立(フランスと西ドイツに加えてイタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクが参加)これが後のEUになったとさ。
#br
***メーメル川 [#f37ad45e]
ドイツがプロイセン王国、ドイツ帝国時代の東の国境がメーメル川。メーメル川というのはドイツの呼称で、現代日本ではネマン川と呼ばれている川。
どこにある川かというとバルト3国のリトアニアとの国境。この時代のポーランドは内陸国。バルト海沿岸はプロイセン領だった。
1次大戦でドイツが敗北すると、西プロイセンはポーランドへ割譲。東プロイセンは住民投票によりドイツに帰属が決まり、東プロイセンはドイツの飛び地になった。
ナチスドイツは東プロイセンの飛び地解消のため西プロイセン(ポーランド回廊)の割譲を要求してポーランドが拒否したことから、ナチスのポーランド侵攻が始まった。
#br
ナチスドイツが守勢に回ると、東プロイセンの死守しようとした最後の戦いがケーニヒスベルクの戦い。
ケーニヒスベルクの戦いに回されたことが[[ケルシャー覚]]のセリフの元ネタw [[カリウス]]は反対の西側の国境の防衛線にいた。
#br
戦後、東プロイセンは北部はソ連、南部はポーランドへ。ケーニヒスベルクはカリーニングラードというロシア風の名前に変更。
北部のドイツ系住民は東ドイツへ追放されました。
#br
***エッチュ川 [#sdd55105]
エッチュ川とは、アルプス東部からアドリア海に流れるアディジェ川のドイツ語名。
ドイツの歌の指すエッチュ川とは、エッチュ川上流域のチロル地域がドイツであるという領土意識。
#br
1次大戦ドイツ敗戦のときから南チロル、トレント(ボルツァーノ)はイタリア領
2次大戦イタリア降伏で、ナチス・ドイツが南チロル、トレントを占領してドイツ領
2次大戦ドイツ降伏で、北チロル、東チロルはオーストリア領。南チロル、トレントはイタリア領。
#br
チロルの名の由来になったのはここを治めた貴族のマインハルト3世 (チロル伯)のいたチロル城。
駄菓子のチロルチョコはオーストリア・チロル州から名付けたので、製造元の松尾製菓はチロル州観光局より感謝状が贈呈された。
しかし、チロル城は南チロルのイタリアにあったりするんだなw
イタリア領の南チロル、トレント地域はドイツ語を話す住民が多く。戦後、自治権をめぐってテロも起きてた地域。
#br
***ベルト海峡 [#t78ac4ed]
#br
このベルト海峡とは、欧州大陸から北海・バルト海に突き出たユトラント半島とフュン島の間のリトルベルト海峡のこと。
#br
中世にデンマーク王と欧州貴族がユトラント半島にあったシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国の領有を相続やらで
グチャグチャにしてきたことが、19世紀以降、デンマークとプロイセンとオーストリアで領有権争いが激しくなったこと。
ドイツ側主張はシュレースヴィヒ公国はドイツ領だから国境はリトルベルト海峡であるという話。
#br
1次大戦でドイツ敗北で、シュレースヴィヒでは帰属をめぐる住民投票で帰属を決めることになり分断。
北部は投票でデンマーク領に、中央はドイツ残留。南部は投票なしでドイツ領のまま。
#br
ドイツが海軍を運用するには北海・バルト海の安定が必要ということもあり、ポーランドの次にデンマークに侵攻した。
*ハンガリー [#q52e8000]

*フィンランド [#h9e21bdd]

*フランス [#p17e0c74]

*ポーランド [#ofe163c6]

*ルーマニア [#c16008a7]

*その他 [#c214ff25]
**機関銃or機銃? [#g9c4f695]
日本では陸軍は「機関銃」と呼び、海軍は「機銃」と呼んだので、このゲームでは当然「機関銃」と呼ぶべきですね。
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構造的にキャノン砲構造で自動装填になっているものは、機関砲(英Autocannon、独&color(Blue){M};aschinen&color(Blue){k};anone)or機関銃(英Machine Gun、独&color(Blue){M};aschinen&color(Blue){g};ewehr)
ドイツの砲や銃には、&color(Blue){MK MG}; と入ってますね。(例 7.92mm MG42機関銃、30mm MK101機関砲) 
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二次大戦の頃は砲と銃の区別が国によって違っていました。
日本陸軍は日露戦争の頃まではすべて機関砲(例 オチキス機関銃は保式機関砲として制式採用)、
その後口径11mm以下を機関銃という基準を作ったけど、砲銃の種類が増えて二次大戦前から制式毎に機関銃か機関砲か定めるとされました。
日本海軍は、口径40mm未満を機銃、40mm以上を機関砲。
ドイツ国防軍は、口径30mm未満を機関銃、30mm以上を機関砲。
英、米軍は、口径20mm未満を機関銃、20mm以上を機関砲。
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このゲームでは機関銃が小型火器(ピンク)と小型砲(赤)に分かれた扱いですので、ドイツ国防軍基準ではないようです。
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戦後は集団的安全保障もあって、口径20mm未満を機関銃、20mm以上を機関砲に基準が揃えられました。
おおむね口径20mmから榴弾が用意されているのも機関銃と機関砲を分ける目安になっています。
**バタリオン [#t94b8f4b]
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バタリオンって何?
軍隊でなければ大群のこと、映画「バタリアン」もこれ。
軍隊では大隊(Battalion)のこと。
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大隊ってのはこの時代なら3中隊で1大隊、1中隊は3小隊。
戦車4両で1小隊の編制、大隊本部付き、中隊本部付きもあるのでもう少し増えて、戦車大隊でだいたい40両くらい。
映画「プラトーン」は小隊(Platoon)のことで、歩兵約50人で1小隊、歩兵3小隊で歩兵中隊(英語でCompany、会社ではないw)
歩兵大隊のなると400~500人の規模になる。
単に隊長と言えば中隊長のことで英語だとキャプテン(Captain)実はキャプテンの語源は隊長。階級では陸軍大尉。
その下は小隊長はだいたい少尉、その上の大隊長はだいたい中佐。
(困ったことに海軍でキャプテンと言うと大型艦の艦長になり、階級は海軍大佐)
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