カツコフ のバックアップの現在との差分(No.3)
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元ネタ紹介ソビエト赤軍の指揮官ミハイル・エフィーモヴィチ・カツコフ(Михаил Ефимович Катуков)(1900~1976)が元ネタ クルスクの戦いやバグラチオン作戦に参加、以後ベルリン攻防戦まで戦い抜いた。 大祖国戦争の初期には第9機械化軍団の第20戦車師団を指揮し36両の戦車を擁していたが、ドイツ軍との激戦を経て全滅寸前まで追い込まれ、師団が解散することになる。 その際、ソビエト軍大本営は第15戦車師団と第20戦車師団の残党をかき集め、さらに周辺の戦車学校から学生教員を問わずに戦車兵を招集し第4戦車旅団を編成。その指揮官にカツコフを任命した。 第15戦車師団からはラヴリネンコのT-34小隊・ブルダのT-34中隊・サモヒンのBT-7中隊など後のエースたちが合流し、カツコフの指揮下に入った。 この第4戦車旅団はモスクワの戦いにおいてグデーリアンの第2装甲軍と戦い、50両前後の戦車で130両あまりの戦車を破壊する大打撃を与え、 その戦功から第1”親衛”戦車旅団の名を授けられる栄誉に与った。 カツコフはその後、第1戦車軍団の下で第1親衛戦車旅団を率い、42年の秋からは機械化旅団や戦車旅団を増強されて第3機械化軍団(改称後は第8親衛機械化軍団)の指揮官となり、 さらに第6戦車軍団(後の第11親衛戦車軍団)を増強されて第1親衛戦車軍の指揮官となる。 これらは全て第1親衛戦車旅団をカツコフの昇進や戦線の状況に合わせて増強する形で行われている。 その関係は戦後のドイツ駐留ソビエト軍時代も続き、カツコフが監察官として第一線を退くまで共にあった。 後日談
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