ヴァシレフスキー のバックアップの現在との差分(No.3)
00は改良+強化+レベルMax時(とにかくMAX) 入手方法実装日:2016年1月12日 期間限定探索キャンペーン(2時間45分) ・期間限定探索キャンペーン(1月12日12:00~1月19日9:59)探索時間 02:45:00 ・キャンペーン期間限定探索ミッションでも獲得可能(探索15人、30人、75人、105人(152mm砲ML-20S付き)) セリフ一覧
元ネタ紹介アレクサンドル・ミハーイロヴィチ・ヴァシレフスキー(1895年-1977年)。ソビエト連邦元帥。ソビエト連邦英雄(2度)。 父親は司祭、母親は司祭の娘という聖職者家庭で、8人兄弟のうちの4番目の子供として生まれた。 しかし第一次大戦が始まると1915年に軍学校に入り、戦時の人手不足ということもあり4ヶ月で卒業し下仕官となる。赤軍のエリート階級と言われた騎兵科ではなく砲兵科の出身であり、革命が起きるまでに大尉に昇進し、内戦が終わる頃には副連隊長となっていた。 内戦後は共産主義的によろしくない家族とは縁を切り関係を断絶したが、やはりこれが原因で共産党に入党できないどころか1931年まで党員候補にすらさせて貰えなかった、正式に党員になれたのは1938年になってからだった。 しかし第一次大戦が始まると1915年に軍学校に入り、戦時の人手不足ということもあり4ヶ月で卒業し下仕官となる。 赤軍のエリート階級と言われた騎兵科ではなく砲兵科の出身であり、革命が起きるまでに大尉に昇進し、内戦が終わる頃には副連隊長となっていた。 内戦後は共産主義的によろしくない家族とは縁を切り絶縁したが、やはりこれが原因で共産党に入党できないどころか1931年まで党員候補にすらさせて貰えず、 正式に党員になれたのは1938年になってからだった。 1931年に戦闘訓練部に勤めている時に、騎兵監代理に昇格してきたジューコフと出会い、二人の長い付き合いが始まる。 1936年に創設されたばかりの参謀本部アカデミーに入校し、卒業直後にここの講座長になるが1年でやめてまた参謀本部に戻る。参謀本部に戻って来ると当時参謀総長だったボリス・シャポシニコフに気に入られスターリンに紹介されている。 1936年に創設されたばかりの参謀本部アカデミーに入校し、卒業直後にそのままここの講座長になるが1年でやめてまた参謀本部に戻る。 参謀本部に戻って来ると当時参謀総長だったボリス・シャポシニコフに気に入られスターリンに紹介された。 第二次世界大戦が始まると参謀次長・作戦局長としてモスクワ防衛計画を最高司令官代理のジューコフと共に練りドイツ軍の撃退に成功する。 第二次世界大戦が始まると参謀次長・作戦局長として、モスクワ防衛計画を最高司令官代理となっていたジューコフと共に練りドイツ軍の撃退に成功する。 スターリングラード攻防戦の最中の1942年にシャポシニコフが病気で辞任し後任にヴァシレフスキーが参謀総長となり、ジューコフと共に反攻計画を立案しスターリングラードで大反撃を開始しドイツ第6軍を包囲することに成功した。 その後もクルスクの戦いを察知し防衛計画を立案し撃退、バグラチオン作戦も計画立案し大兵力を徹底的な隠蔽・秘匿・欺瞞工作を行い奇襲、大攻勢を見事に大成功させソビエト連邦英雄を授与された。 その後もクルスクの戦いを察知し防衛計画を立案し撃退。 バグラチオン作戦も計画立案し大兵力を徹底的な隠蔽・秘匿・欺瞞工作を行い奇襲、大攻勢を見事に大成功させソビエト連邦英雄を授与された。 この頃になると作戦の細かな調整や変更を加える時は、最高司令官スターリン・最高司令官代理ジューコフ・参謀総長ヴァシレフスキーの三人だけで会議をする事も増え、この三人の意思と考えによりソ連軍全体が動き始めた。 なお結果的には使用されなかったが、ヴァシレフスキーとジューコフにのみ戦線司令官でなくとも戦線を指揮する特権をスターリンが渡しており、スターリンがジューコフと同等にヴァシレフスキーを特別視していたことが伺える。 なお結果的には使用されなかったが、ヴァシレフスキーとジューコフにのみ戦線司令官でなくとも戦線を指揮できる特権をスターリンから渡されており、スターリンがジューコフと同等にヴァシレフスキーを特別視していたことが伺える。 戦争終盤ではジューコフと同じ様に第3白ロシア戦線の司令官となり、一司令官として東プロイセンへの攻勢を行いケーニヒスベルク含む東プロイセン地域全土を攻略。ベルリン戦には参加せずドイツとの戦争は終了した。 戦争終盤ではジューコフと同じ様に第3白ロシア戦線の司令官となり、一司令官として東プロイセンへの攻勢を行いケーニヒスベルク含む東プロイセン地域全土を攻略。 ベルリン戦には参加せずドイツとの戦争は終了した。 ドイツとの戦争の後はジューコフがドイツの占領軍司令官になって動けなかったので、対日線では極東戦線の最高司令官として侵攻計画を練り関東軍を撃破した。 第二次世界大戦が終わるとまた参謀総長となりその後は軍事相(後の国防相)に任命され、その後は名誉職に就いたあとに回想録を書いて4年後に死去。クレムリンの壁に埋葬された。 第二次世界大戦が終わるとまた参謀総長となり、その後は軍事相(後の国防相)に任命され、名誉職に就いたあとに回想録を書いて4年後に死去。 クレムリンの壁に埋葬された。 人物としては穏やかな理論家であり、怒鳴り付けたり叱責することはあれど一般的な軍人程度であり、ジューコフやコーネフの様に過激なまでに短気だったり怒り狂ったりすることはなかった。 人物としては、穏やかな性格で相当な理論家であり縦深戦術理論を大きく発展させた。 兵を怒鳴り付けたり叱責することはあれど一般的な軍人程度であり、ジューコフやコーネフの様に過激なまでに短気だったり怒り狂ったりすることはなかった。 ヴァシレフスキーとジューコフでは性格がかなり違うが、仕事柄何度も顔を合わせるので自然と親しくなり、特筆すべきはヴァシレフスキーの息子のユーリーとジューコフの娘のエラが結婚して親戚関係にもなるほど親しかったが、ここがピークだった。 戦争が終わると邪魔者としてジューコフはスターリンから敵視され始め冷遇され、左遷や人事的な降格が始まり、ついにはジューコフの部下や秘書が銃殺刑にされたりし始めためヴァシレフスキーもジューコフには近づかなくなっていき、スターリン死亡後にはよりが戻せるかと思いきやジューコフとフルシチョフとの政争が始まってしまい関係が断絶、トドメに息子夫婦が離婚してしまい、戦争で築きあげた友情が戻ることは二度と無かった。 戦争が終わると邪魔者としてジューコフはスターリンから敵視され始め冷遇され、左遷や人事的な降格が始まり、ついにはジューコフの部下や秘書が銃殺刑にされたりし始めためヴァシレフスキーもジューコフには近づかなくなっていき、スターリン死亡後にはよりが戻せるかと思いきやジューコフとフルシチョフとの政争が始まってしまいついに関係が断絶、トドメに前述の息子夫婦が離婚してしまい、戦争で築きあげた友情が戻ることは二度と無かった。 JSU-152ドイツのⅢ号突撃砲に触発され、T-34をベースにした自走砲SU-122と、その派生型SU-85やSU-100が完成する一方、 もう一つの主力重戦車KVをベースにした自走砲もまた開発された。 これはKV-2に使用されたM-10榴弾砲よりも重くて長射程の加濃榴弾砲とも呼ばれる152mm ML-20砲を採用したもので、SU-152と呼称された。 この砲は分離装薬で48kgもの大重量砲弾を発射するため連射速度が遅いという缺点はあるものの、1000mで120mmの装甲を貫通可能で、 なお恐ろしいことには大重量砲弾であるため距離によるエネルギー減衰が少なく、2000mの距離でもなお110mmの装甲を貫通し、ティーガー戦車に対抗しうる可能性を秘めていた。 しかし前面装甲は傾斜させたとはいえ60mmしかなく、撃破される可能性があった。 1943年11月にKV重戦車は後継JS重戦車にその役目を譲り、生産終了が決定した。 これを受けてJS-1/2重戦車の車体を用いてSU-152の改良型が直ちに開発されることになった。 これがJSU-152である。 車高の低いJS戦車に対応させて戦闘室の背がやや高くなり、正面の装甲は90mmに増やされた。 またハッチにもJS戦車同様のペリスコープが装着されている。 また天井の装甲は全面溶接だったSU-152から、半分だけボルト止めに変えられた。 表向きの理由は生産性と整備性の向上であるが、実は車両が被弾し、内部の燃料や弾薬に誘爆した際、天井部分が真っ先に吹っ飛んで圧力を逃し、 車体内部の損傷を防ごうという意図もあった。 JSU-152は122mm砲を搭載したJSU-122とともに大戦終了時までに4000両が生産され、その圧倒的破壊力は市街地戦闘でも存分に発揮されている。 後日談
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