コーネフ のバックアップの現在との差分(No.4)
00は改良+強化+レベルMax時(とにかくMAX) 入手方法実装日:2015年11月17日 第2次撃滅戦 報酬 セリフ一覧
元ネタ紹介イワン・ステパーノヴィチ・コーネフ。政治将校出身のソビエト連邦元帥。純軍事勲章では最高章(レーニン勲章やソビエト連邦英雄は非軍人も対象)の勝利勲章の受章者。 ジューコフのライバルとして有名で、ジューコフに救われたり、上司と部下の関係になったり、二人でベルリンレースしたりで有名だが、実際の二人は複雑な関係だったらしい。 1918年のロシア内戦時に共産党に入党し同年に赤軍政治将校として入隊し砲兵科に入る、1920年代には本格的な軍事司令官になり頭角を現し始める。 1941年に独ソ戦が始まると西部戦線の司令官として戦い、モスクワの戦いでジューコフの副官になり両者の活躍で防衛に成功し、ここから二人のライバル関係が始まる。 その後はカリーニン戦線や北西戦線の司令官となり、ステップ戦線司令官の時にクルスクの戦いが始まり、ジューコフと共にマンシュタインの南方軍集団と戦い勝利する、ベルリンに迫りつつある1944年にはジューコフの後任として第1ウクライナ戦線司令官となる。 ベルリンの戦いが始まるとジューコフ指揮の第1白ロシア戦線と競争に乗り出すが、スターリンの思惑もあり競争は極めて激しくなり、両者とも部下を怒鳴りつけながら脅しかけたり、無茶な進軍により被害も増えた。 結果はほぼ同時に到着していたが、ジューコフの部隊がライヒスターク(国会議事堂)を占領していたのでベルリン一番乗りとされた、代わりにコーネフはエルベ川で最初にアメリカ軍と邂逅する名誉を授かった。 戦後は地上軍総司令官や国防次官、ドイツ駐留ソビエト軍総司令官になり、最終的にはワルシャワ条約機構統合軍(東側諸国の統合軍)総司令官にまでなった。 1973年5月21日モスクワで死去。 史実のコーネフの性格はジューコフとそっくりどころかほぼ同じであり、極めて非情でいかなる犠牲も問わず他人の過ちを許さず、簡単に感情を爆発させ頑固で規律に厳しいが、戦略に長けた有能な人物だった。 ジューコフとの関係前述したとおり、ジューコフとは切っても切り離せないほどに深い縁がある。 ジューコフは、赤軍に入隊した後に共産党に入党し、どちらかと言えば軍に近い騎兵閥。 コーネフは、共産党に入党した後に赤軍に入隊し、どちらかと言えば党に近い砲兵閥。 と細かな点で相違点があり、あまりソリが合わなかった原因の一部でもある。 ジューコフのことを命の恩人と言っているのは、ヴォロシーロフ(別説ではスターリン)に目を付けられ軍法会議にかけられるところを、丁度レニングラード戦線から転任してきたジューコフが有能な人材を犠牲にするのは惜しいとして庇ったから。 だがしかし、後にこの恩は仇で返すことになる。 戦後になって、ソ連の新たな指導者となったフルシチョフは軍の人員削減をする代わりに核戦力に予算を当てようとしたが、当時国防相だったジューコフは通常戦力の増加と強化に予算を当てようとしたため、フルシチョフに嫌われ国防相から解任された。 このように政治的に不利な状況になっている最中に、コーネフは共産党の機関紙であるプラウダ誌上でジューコフを痛烈に批判し、これをきっかけに党と軍によるジューコフへの攻撃が始まり、最終的に周りからの人格否定に晒されながら、完全に失脚し引退生活をせざるを得なくなってしまう。 あとでジューコフもお返しとばかりに回想録内でコーネフをボロクソに言ってる。 ここでコーネフを擁護すると、元々軍人よりも政治家的なコーネフは党の意見を素直に受け入れ、さらにジューコフを戦時中の「過激な競争をする軍事的ライバル」と同じように、「過激な競争をする政治的ライバル」として考えていたから、このような容赦ない行動をとったと思われる。 そもそも政治的に優位になってるフルシチョフに逆らったら精神病院送りになるか、年金無しの老後生活を強制させられるけど。 ちなみにソ連軍の9割方は共産党員で圧倒的に党の意見優位の軍隊であり、党内で邪魔物扱いされると軍内でも同じような扱いになってしまい高確率で軍・党双方で失脚してしまう。 なお、ジューコフはフルシチョフ失脚後にブレジネフに担ぎ出され祖国の英雄に返り咲いた、この際コーネフは「欠点はあるが紛れもない偉大な司令官であり、当然ながら戦勝パレードに出席すべき」と発言しているが、最終的な二人の関係はよくわかっていない。 後日談
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