オスキン のバックアップの現在との差分(No.7)
00は改良+強化+レベルMax時(とにかくMAX) 入手方法ドロップもしくは探索 セリフ一覧
元ネタ紹介本名アレクサンドル・ペトローヴィチ・オースキン(Алекса́ндр Петро́вич О́ськин)。 田舎から12歳の時家族でモスクワに引っ越し、成績優秀で18歳でモスクワ大学を卒業。税理士として働く。 しかし大祖国戦争が始まると徴兵され、T-26戦車に載るための講習を受ける。 嘘かホントか知らないがオスキンたちは戦車砲を3発撃っただけで「合格」とされ前線送りになった。 モスクワでたちまち負傷し後送されるが、スターリングラードの攻防が激化すると完治してないのに駆りだされ、 やっぱり負傷して病院送りになる。 1943年に後送された先でまともに戦車学校を卒業。1944年に真新しいT-34/85戦車を受領し、ヴィテブスクに赴く。 この戦いでオスキンの戦車は7回も炎上したがオスキンは生きていた。 8月12日、ドイツ軍の進撃を食い止めるためトウモロコシ畑に隠れていたオスキンのT-34/85は、 わずか200mほどの距離に飛び出してきた3両のティーガーⅡを立て続けに撃破。 このことを表彰されソ連邦英雄勲章をもらった。 この時撃破されたティーガーⅡは今もクビンカ博物館に展示されている。 戦後も軍で指導にあたり、1971年に退役。食品加工会社で軍用食品の研究指導などを行った。 2010年に死去した。 T-34-85ソ連が開発したT-34は傑作と言って良い戦車であったが、ドイツ軍がティーガーを投入するとこれに対抗するのは難しくなった。 そこでソ連軍が目をつけたのはドイツが高射砲でありながら対戦車砲としても利用し、ティーガー戦車に搭載していた88mm砲である。 何だ似たような高射砲なら我が軍にもあるじゃないかと早速52-K85mm高射砲とその対戦車砲弾をベースに開発された主砲をT-34に乗っけたのが、 T-34-85である。 この開発には急がせるためと片方が失敗してもいいように2つの設計局で平行して進められ、どっちもちゃんと完成してしまったため、 先に完成したD-5T砲を搭載した1943年型と、やや遅れて完成したZiS-S-53砲を搭載した1944年型が存在する。 }} シャシリクトルコ地域の言葉ではシシケバブー。酢やオリーブオイルをベースに調味料で味付けしたマリネ液にたっぷり漬け込んだ肉を串焼きにした料理。 ペリメニ小麦粉を水か牛乳で練って薄く伸ばした生地で、ひき肉や細かく刻んだ野菜を混ぜたものを包んだもの。 要するにロシア版餃子。水餃子のようにスープで煮て食べる。 寒い冬は外に出しておけば勝手に凍るのでたくさん作ってはそうやって保存して食べていたそうな。 スビョークラビート・てんさい・サトウダイコンなどと呼ばれるものの一種。 日本のビートと違い色が赤く、加熱しても退色しないのでこれを入れた料理はたいてい真っ赤になる。 栄養価に優れ甘みがあり食物繊維が多くしかも低カロリーといいことづくめの食品である。 後日談
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