雑学 のバックアップ(No.14)
ここでは国籍別に当時の軍事や軍事に関係ない事とかの、ミリ姫に関する雑学を取り扱っています。 アメリカM4中戦車米国陸軍制式のM4中戦車、愛称シャーマン 事を複雑にしているのは、M4からA1-A2-A3-A4なんて順番にモデルチェンジをしていたのではなく、
欧州戦線で活躍したのは後期モデル(W付き)。戦訓から弾薬庫を引火性の低い湿式弾薬庫に変更。 M26パーシングまでの繋ぎとして、装甲厚を倍に強化した派生モデル 戦後も運用が続けられた
軍需品その1 コカ・コーラ戦争中の物資は政府の管理下におかれました。砂糖もそのひとつ。砂糖を使用するコカ・コーラも政府から砂糖の割り当てがありました。 軍需品その2 スパム連合国間の取り決めであるレンドリース法(武器貸与法)によって、アメリカは連合国各国へ軍需物資送る役目を担当しました(貰うこともあったけど圧倒的に送る量が多かった)。 イギリス軍需品その2 スパム さらに続く戦中戦後の英国は食糧輸入率70%(肉類は50%)と非常に高く。戦勝国でありながら戦争が終わっても配給制が続いた。 イタリア2回の降伏1943年、連合国がイタリアに押し寄せると、国王は敗戦による王政廃止されたら困るので降伏を選ぶことになる。 連合国軍が北上すると、ナチスドイツも進軍し、チロル地方占領、イタリア勢力圏だったバルカン半島、南フランスへ。 ここでヒトラーは盟友ムッソリーニを救出して、占領したイタリアを統治させることを考える。 ムッソリーニの身柄は連合国に引き渡されることが確実と見られていた中、降伏から4日後の9月12日にシュトゥデントの 連合国軍優勢なのは変わらない。連合国軍は北上し、1945年4月18日に政府機能をミラノへ移転というか逃亡。 2回降伏したけども、過去ムッソリーニが復活したことで信用しない人たちもいるので、生存説払拭のため、 ヒトラーはムッソリーニが逆さ吊りで晒しものにされたことを知り、自身はこのような目にはあいたくないと、 ムッソリーニ逆さ吊りをヒトラーが嫌がったこと、これがゲームでの逆さ吊り大破ヴィットマン昇の カナダソビエト連邦構成共和国ソ連はデカい、とにかくデカい。
兵科元帥ロトミストロフの最終階級の「戦車兵総元帥」は耳慣れぬ階級だと思う諸兄が多そうなので、ここで解説しておく。 ソ連軍ではドイツ軍やイギリス空軍をモデルにそれぞれの兵科の専門家として、砲兵・航空・戦車隊・通信隊・工兵隊のそれぞれに元帥があり、その上に兵科総元帥が置かれていた。 最終的には、ソ連崩壊後のロシアの軍事改革により兵科元帥と兵科総元帥は上級大将に吸収され、完全に消滅した。 一歩も下がるな!で有名な「ソ連国防人民委員令第227号」と督戦隊、「ソ連軍では味方によって後ろから撃たれる」という赤軍をとても印象付けるものなのだが、 最終的に約1000人以上が督戦隊により射殺されたが、1942年10月に正規の督戦隊はひっそりと解散し、1944年11月29日には督戦隊は公式に解散した。 銃は二人に一丁?よく勘違いされていることだが「銃は二人に一丁」状態だったのは初戦の大敗からスターリングラード戦中盤までであり、戦線が安定してきたスタグラ戦の後半以降はちゃんと一人一丁持てるようになっている。 高級将校でも敗北したら粛清というのは間違いであり、ソ連でも他の国と同じようにそれなりに大切に扱っている。 例えばセヴァストポリ要塞包囲時の指令官イワン・ペトロフは、降伏寸前の要塞から政治将校と共に潜水艦に乗り部下を置いて逃げ出したが、その後も部隊を指揮し続けている。(当然ながら評判が最悪になり兵士達から滅茶苦茶嫌われた。) 他にもジューコフやコーネフ(は銃殺が検討されたが)も何回か敗北しているが、特にお咎めなどは無くそのまま指揮し続けている。 赤軍司令官の年齢ドイツには1900年生まれの弱冠45歳で第12軍の司令官となり少年将軍と呼ばれたヴェンクがいるが、一方ソ連には大量かつ、とんでもないほど若い少年将軍がいた。 本題に入るが、ソ連にはマルキアン・ポポフという司令官がおり、生年は1902年となんとヴェンクよりも2歳若い! さらにさらに戦線規模での司令官ではアンドレイ・エリョーメンコという元帥が最年長だったが、なんとロンメルより1歳年下の生年1892年で、終戦時でも53歳だった。 どうしてソ連と他の国では親子程もの年の差が離れているのだろうか? シベリア送りにならなかった人は、大粛清以前のソ連最初の5大元帥の生年と1935年の元帥就任時の年齢を見てみよう。 上記から、革命によって生まれた国を守る革命軍である赤軍は、建軍時点ですでに革新的な思想を持つ若者達によって形作られており、ドイツ司令官と同年代の司令官達はほぼ全員が内戦時に白軍に移り、赤軍にいたのは若者が大多数だったから、ここまで軍全体が若くなったということがわかる。 他にも、ジューコフが1896年生まれで1943年に46歳で元帥就任、ティモシェンコが1895年生まれで1940年45歳で元帥就任など、まだまだ若い事がわかる。 これらの事を踏まえて言うなれば、この時代のソ連軍はまさしく、能力だけが物を言う叩き上げの軍隊だったのだ。 地名がわからない!?ロシア語、ドイツ語、英語の発音の違いの言語的なものもあるが、事を面倒臭くしているのが共産党による地名の変更。 ロシア
ウクライナ
中央アジア
旧ドイツ
ドイツドイツ"標準"語マルティン・ルターのドイツ語訳聖書の出版により、書き文字のドイツ語は聖書がデファクトスタンダードとなったが、発音はそうはいかなかった。 さてこの状況に困ったのが演劇を公演する劇団である。 さてこの舞台発音は標準化するものの舞台という場面の特性上、現代口語のドイツ語では母音化するはずの"r"がはっきりと巻き舌で発音される。 好例が銃器メーカーの「Mauser」社で、標準的な発音によれば「マウザー」であるが、 なおこの舞台式発音記号は独和辞典などでは90年代ころまで残っていた。 ゲームのキャッチコピー「前進あるのみ!後退なんてありえない!」元はドイツ語の „Vorwärts immer - Rückwärts Nimmer!“(意味は↑とほぼ同じ。VorwärtsとRückwärts、immerとNimmerという正反対の語句を並べて、さらに綺麗に韻を踏んでる) ドイツの歌現在のドイツ(連邦共和国)の国歌ですが、実はドイツの歌の3番。国際試合の国歌斉唱も3番。現在は1番は公式には歌っちゃいけないんですよ。 ♪マース川からメーメル川まで、エッチュ川からベルト海峡までドイツよ、ドイツよ♪(以下略) マース川現在の西のフランスとの国境はライン川、マース川よりも東側。このライン川とマース川の間がアルザス=ロレーヌ(独・エルザス=ロートリンゲン)地域、フランスとドイツが争うこと300年以上。 この地域の言語はドイツ語系のアルザス語。ワインも白が多く、キリスト教もプロテスタントとカトリックが共存してるから、文化的にみればドイツに近いんだけど、現在はフランス領。ドイツ人からするとフランスっぽいところが多分にあるらしい。アルザス=ロレーヌの人たちの中にはドイツ人でもフランス人でもなく、アルザス人、ロレーヌ人だという民族感情みたいになっているそうです。 戦後ドイツとの戦争をしないようにするために欧州石炭鉄鋼共同体を設立(フランスと西ドイツに加えてイタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクが参加)これが後のEUになったとさ。 メーメル川ドイツがプロイセン王国、ドイツ帝国時代の東の国境がメーメル川。メーメル川というのはドイツの呼称で、現代日本ではネマン川と呼ばれている川。 ナチスドイツが守勢に回ると、東プロイセンの死守しようとした最後の戦いがケーニヒスベルクの戦い。 戦後、東プロイセンは北部はソ連、南部はポーランドへ。ケーニヒスベルクはカリーニングラードというロシア風の名前に変更。 エッチュ川エッチュ川とは、アルプス東部からアドリア海に流れるアディジェ川のドイツ語名。 1次大戦ドイツ敗戦のときから南チロル、トレント(ボルツァーノ)はイタリア領 チロルの名の由来になったのはここを治めた貴族のマインハルト3世 (チロル伯)のいたチロル城。 ベルト海峡このベルト海峡とは、欧州大陸から北海・バルト海に突き出たユトラント半島とフュン島の間のリトルベルト海峡のこと。 中世にデンマーク王と欧州貴族がユトラント半島にあったシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国の領有を相続やらで 1次大戦でドイツ敗北で、シュレースヴィヒでは帰属をめぐる住民投票で帰属を決めることになり分断。 ドイツが海軍を運用するには北海・バルト海の安定が必要ということもあり、ポーランドの次にデンマークに侵攻した。 ハンガリーフィンランドフランスポーランドルーマニアその他機関銃or機銃?日本では陸軍は「機関銃」と呼び、海軍は「機銃」と呼んだので、このゲームでは当然「機関銃」と呼ぶべきですね。 構造的にキャノン砲構造で自動装填になっているものは、機関砲(英Autocannon、独Maschinenkanone)or機関銃(英Machine Gun、独Maschinengewehr) 二次大戦の頃は砲と銃の区別が国によって違っていました。 このゲームでは機関銃が小型火器(ピンク)と小型砲(赤)に分かれた扱いですので、ドイツ国防軍基準ではないようです。 戦後は集団的安全保障もあって、口径20mm未満を機関銃、20mm以上を機関砲に基準が揃えられました。 コメント}} |
最新の20件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示