00は改良+強化+レベルMax時(とにかくMAX)
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元ネタはヴォルフガング・ヴァール少佐。 「第8戦車連隊 第2大隊長」 1913年7月15日、ドイツ東部デーベルンに生まれる。父も軍人であった(最終階級大尉)。 1933年にドレスデン、第4自動車大隊に入隊、二年後には戦車兵少尉となった。 フランス戦では重傷を負うが戦友たちに助けられ一命を取り留めた。(後に1級騎士十字章受章) 1941年1月、彼の所属する第15師団、第8戦車連隊はアフリカ戦線に派遣され、ヴァールは中尉に昇進。 カプッツオ砦、ハルファヤ峠(ウィルヘルム・バッハ大尉が頑張った戦い)の戦いに参加(愛車は3号戦車)。8月には大尉に昇進、大隊長となる。 同年11月、シジ・レゼクの戦いでは部隊の先頭に立って出撃。英砲兵陣地を気合と根性で突破、これを撃滅するも頭部に負傷。海軍病院に入院する。 この功績により、1942年1月6日、騎士十字章を受章した。 同年5月、部隊に復帰しイギリス軍新型戦車、「グラント」との戦闘を経験、何とか乗り切った。 だが1942年7月15日、エル・アラメインの前哨戦「ルウェイト丘攻防戦」で5度目の重傷を負い、イギリス軍の捕虜となった。 傷か完治したのちはアメリカ軍の捕虜収容所に移送。1943年12月、収容所内で少佐への昇進を受け取る。 ヴァールは1946年に解放され、建築技師として余生をすごした。 ちなみにヴァールは、謙虚で思いやりがあり部下や戦友たちから慕われていたという。またその勇猛果敢な行動は称賛に値すると、騎士十字章受章時に海軍大尉から賛辞を与えられるほどであった。 (「昇」が無いのは戦争中盤に捕虜になってしまったためか?)
戦間期、来るべき再軍備に備えドイツは戦車の製造に着手したが、製造経験も運用経験もない状態でいきなり作れるわけもなく、 ひとまずⅠ号戦車、Ⅱ号戦車と段階を踏んで製造し、運用経験を積んでから本格的な戦車の製造に着手することにした。 (その間戦車部隊の練習はグデーリアンの発案により自動車やトラクターにベニヤ板を貼り付けたハリボテで行われた) さてその本格的な戦車製造にいよいよ着手しようという段階でグデーリアンの電撃戦理論に基づき、機動力に優れ火砲と機銃を備えた軽戦車がⅢ号戦車であり、 それを支援する大口径砲を備えた戦車が4号戦車である。
ところがⅢ号戦車の製造は難航した。 それまでの戦車よりずっと大きくて重い上、悪路での走破性も重視して それまでのⅠ号、Ⅱ号、さらにⅣ号でも使われたリーフスプリング方式よりも優れたサスペンションを要求されたが、 コイルスプリングを用いたA型は満足な結果にならず、リーフスプリング式に戻したもののやっぱり不満で、結局トーションバー方式に落ち着いた。 この時点で型式番号はE型を振られている。 G型はE/F型で搭載されていた3.7cm砲から、更に大口径の42口径5cm砲が搭載され、後には30mmの前面装甲にさらに30mmの追加装甲が施された。 この火力と装甲を強化されたⅢ号戦車は実質、開戦前に考案されたドイツ軍主力戦車の完成形という位置づけであったのだが、 9ヶ月後には北アフリカ戦線に置いてマチルダ2と、1年後には独ソ戦の開戦によりT-34と遭遇。 装甲、火力共に増強を求められると、大型砲を搭載できないターレットリングの狭さなどから主力戦車の座を追われることになる。 しかし優秀な車台であったことから突撃砲に転用され、これは大戦を通じてドイツ軍の強力な装備となった。
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