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コールケ のバックアップ(No.20)
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ヘルムート・コールケ伍長
第561戦車駆逐大隊第3中隊に所属。「石炭泥棒(コーレンクラウ)」の描かれたマーダーIIの上で腰に手を当てて立っている写真で知られる。
これは1943年の3月21日に693宣伝中隊のウォルター・ヘニッシュによって撮影されたもので、この構図でボックスアートが描かれた田宮模型の1/35のプラモデルで一躍有名になった。
なお、PK(宣伝中隊)と行動を共にしたことはなく、宣伝活動のため中央ロシアの戦線にPKが訪れただけである。
主砲のキルマークからも分かるように19両以上の敵戦車を撃破。その功績により1942年10月16日、ドイツ十字章(金)を受賞。また後日、陸軍名誉鑑章も受賞している。写真からは一級、二級鉄十字章、歩兵突撃章、東部戦線従軍記章を佩用しているのが確認できる。
その最期ははっきりとしておらず、戦闘中に行方不明。
なお、第561駆逐戦車大隊は1945年2月の時点でマーダーIIを全て喪失、ほぼ壊滅状態だった。
彼のマーダーIIに描かれたヒゲオヤジの絵は「kohlenklau(コーレンクラウ)」(キャラのイラストにも左肩に描かれている)。
これは当時のドイツ政府が作った石炭の浪費・闇市場への横流しを戒めるキャンペーンポスターに描かれたキャラクター。
この「石炭泥棒」実行犯は実は子供が結構多く、信号待ちで止まっている石炭の運搬トラックからくすねるという手段が横行していた。
盗んだ石炭は売って小遣いにしたり、配給統制の厳しい自宅の燃料の足しにしていたとされる。
ドイツでは民間の燃料は石油ではなく、あくまで石炭だったのだ。
白地の三角形に赤い枠とIAの記号は第561戦車駆逐大隊のインシグニアである。
1941年、バルバロッサ作戦を発動しソ連に侵攻したドイツ軍は、強力な新鋭T-34とKV-1の出現に強い衝撃を受けた。
特にその優れた防御力は当時ドイツ戦車の主力であった37mm砲や50mm砲での撃破が難しく、ソ連軍から鹵獲した76mm砲に頼る有様であった。
そこで暫定的に戦車の車台へこの強力な76mm砲を搭載した、対戦車自走砲が急造されたのである。
マーダーには3種類あり、
・鹵獲したフランス軍戦車の車台を用いたマーダーⅠ
・Ⅱ号戦車の車台を用いたマーダーⅡ
・38(t)戦車の車台を用いたマーダーⅢ
の3種類が大慌てで製造された。
この内マーダーⅠは部品の互換性や整備の問題からすぐに西部戦線へ配備となり、マーダーⅡとマーダーⅢが東部戦線へ送られ、有効性を示した。
戦闘室の防御はわずか11mmのオープントップ装甲に守られただけで甚だ不安であったが、優れた火力でソ連戦車を多数撃破している。
その後はどちらもドイツ製の75mm対戦車砲に載せ替えた型も作られた。
大戦後半にはマーダーⅡは同じ車台を用いた自走榴弾砲ヴェスペに、マーダーⅢは工場製造ラインをヘッツァーに切り替えたため、
マーダーシリーズの製造は終了したが、前線に配備されたマーダーは終戦まで戦い続けた。
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