マリノフスキー のバックアップ(No.21)

マリノフスキー.png図鑑No.256
兵科重戦車
型式JS-2
イラストレーター青いツナミCV野口瑠璃子
初期装備
122mm砲D25-T---
------
改良時の装備
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ステータス
体力84/125
火力30/99命中51/80
装甲59/98回避8/40
対空5/35偵察5/28
移動低履帯種別重装甲
射程中距離占領可/
消費資材
燃料.png87/87(23)弾薬.png87/87(23)
改良・昇格
マリノフスキーマリノフスキーⅡ(Lv25)
図鑑説明
死ぬより辛いこともあったし、挫折もしたけど、農民出の一介の兵士からソ連国防大臣になるという立身出世を遂げたよ。
「一度くらいの失敗であきらめるな」があたいの口癖さ。説得力あるでしょ?

00は改良+強化+レベルMax時(とにかくMAX)

入手方法 Edit

実装日:2016年01月19日
イベント「アレキサンドリア軍港を奪回せよ!」上級ボスドロップおよびミッション報酬

セリフ一覧 Edit

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元ネタ紹介 Edit

ロディオン・ヤーコヴレヴィチ・マリノフスキー(1898年~1967年) ソビエト連邦元帥。ソビエト連邦英雄(2度)。勝利勲章の受章者。


ロシア帝国のオデッサで生まれる。マリノフスキーは母親の姓であり父親はよくわかっていない。
一部の歴史家がカライ派(ユダヤ教の少数宗派)のユダヤ人だったと主張しているが説の域を出ていない。
家は貧農で母親の女手一つで育てられていたが、母親は富農と再婚し生活は良くなった・・・かと思いきや、
再婚後の父親からはまったく良い顔をされず、結局は母と共に家と農場から追い出されてしまいホームレスになり、乞食同然の極貧生活を強いられてしまう。
その後はロクに学校にも行けずに小間物屋の売り子として働き続け、生きるのが精一杯の生活の中をかろうじて生き長らえていた。


1914年に第一次世界大戦が勃発するとともにロシア帝国軍に徴兵された・・・のかと思いきや、
愛国心に突き動かされたからなのか、徴兵されていないにも関わらず勝手に戦地へ向かう部隊に付いて行き、現地の部隊長と直接交渉して機関銃手にしてもらった。
1916年にロシア帝国は同盟国であるフランスに派遣軍を送るが、その派遣軍の一員として西部戦線に赴き、西部戦線で戦うという経験を持つ希有なロシア兵となる。
1917年に厭戦感情が蔓延したフランス軍内で大規模の兵士たちの反乱が起きる、これは新たな攻勢命令を結局塹壕を突破できないから無駄死にだとして拒否したことが切っ掛けだったのだが、
調度この頃にロシア革命が起き、それに影響された軍内の共産主義者も反乱し一部の部隊がコミューンを宣言するなど混乱状態にあったが、色々と賛否両論のフィリップ・ペタン元帥が穏健な鎮圧に成功。
このときマリノフスキーはあんな生活を強いられてたら当たり前だが革命派に同調してたため、フランス当局に逮捕されている。


戦争が終わった1919年8月にロシアに戻るとすぐさま赤軍に投じ、ロシア内戦の終結まで極東でコルチャーク軍との戦闘に従事した。
1926年にソビエト連邦共産党に入党。1927年に大隊長となり、フルンゼ軍事大学で学び1930年に卒業。
第2騎兵師団参謀長、師団長を歴任。4年間の参謀本部勤務ののちベッサラビアで騎兵軍団長に就任した。
スペイン内戦では共和国軍の軍事顧問を務め、「マリーノ大佐」と呼ばれていた。その後少将に昇進し、フルンゼ軍事大学教官となる。


大祖国戦争(独ソ戦)が始まった1941年には、オデッサ軍管区のでモルドヴァ歩兵軍団司令官を務めており。8月には南部戦線で第6軍の、12月から第12軍の指揮を執った。
1941年末には南方戦線司令官に就任するが、1942年のハリコフ攻防戦で大敗を喫し、軍司令官に降格される。
しかしスターリングラード攻防戦の最中に、ドイツ軍は包囲されたパウルス率いる第6軍を解放する冬の嵐作戦を発動するが、その攻撃作戦近くにマリノフスキーが指揮する第2親衛軍がいた。
ジューコフから命令されたマリノフスキーはすぐさまドイツ軍に果敢な反撃と攻撃を行い、攻勢を頓挫させることに成功、無事マルティンの目からハイライトが失われた。


この戦いが終結したのちの1943年2月から上級大将に昇進して南部戦線司令官となり、
さらに戦局の推移に伴い南西戦線、第2ウクライナ戦線、第3ウクライナ戦線の司令官となり、ルーマニア、ハンガリー、スロバキア、オーストリアでの攻勢作戦を指揮し成功させる。
1944年9月にソビエト連邦元帥に列せられ、ルーマニア軍の降伏を受け入れた。


ドイツとの戦争後の1945年8月にザバイカル戦線に異動となり、日本軍との戦いの時にはゴビ砂漠を超え満州へ遠征する。
第二次世界大戦後はそのままザバイカル軍管区司令官となり、1946年には最高ソビエトの議員になり、1947年にソ連極東軍総司令官に就任。
朝鮮戦争の際は中国人民解放軍や朝鮮人民軍と緊密な連携を持った。1954年付けで極東総軍が解散したため極東軍管区司令官に転じる。


1957年にジューコフ失脚後の国防相に任じられ、晩年は糖尿病と心臓の持病に苦しみ国防相在任のまま、1967年にモスクワで死去した。享年69歳。

JS-2 Edit

ティーガー戦車の登場によりスペック的な優位性を失いつつあったソ連軍は、KV重戦車の反省点を活かした新型重戦車JS-1を開発し、早速戦場へ送り込んだ。
ところがJS-1の主砲に採用された85mm砲はティーガーやパンターと長距離で交戦すると、貫通力が不足するという事態が発覚した。
T-34であれば数と機動力を活かした戦法が取れるものの、より強力で長射程・大火力が求められる重戦車にこの主砲は不適当であると考えられ、JS-1のか火力強化が早くも求められた。
その結果選定されたのが、122mmカノン砲の搭載である。


重野砲であるため砲弾と薬莢が分離装填式、また砲を大型化したにもかかわらず足回りへの負担軽減のため相変わらず45t以内という制限がついたため、
砲弾容量はわずか28発と極めて少ないが、その絶大な火力でドイツ軍重戦車にも長射程での交戦で十分戦闘可能という結果が判明し、ソ連軍は既存のJS-1の改修を進めるとともに、
生産を全てJS-2に切り替え、量産を開始した。
ドイツ側ではJS(ヨットエス)-122と呼称され、交戦したカリウスマントイフェルらはそれまで2000m以上の距離で一方的なアウトレンジ攻撃が可能だったソ連軍に対し、
1500m以下まで接近しないと撃破できず、さらに向こうからの砲撃でこちらが撃破される可能性が十分にあるとして大きな脅威と認めている。
一方で初期においてはその高性能を生かし切った練度の高い兵士は必ずしも多くはなかったとも評され、操縦席前面のバイザーなど弱点を狙われたが、
1944年にはこの弱点も改良され、熟練した乗員たちが増えると重戦車キラーとして活躍した。(改良で一番目立つのが、車体前方が"ローマ人の鼻"と呼ばれる独特な形状に変化したことであろう。)

後日談 Edit

 ネタバレ注意

コメント Edit

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示

  • 元ネタはロディオン・ヤーコヴレヴィチ・マリノフスキー元帥みたいだ -- 2016-01-20 (水) 17:40:06
  • ようやく、上級ボスドロップした
    初期装備は、122mm砲D25-T(火力+31 命中+13)・図鑑No154、装備できる車両は中・重・駆・対自・榴弾だそうです -- 2016-01-22 (金) 19:50:53
    • ドロップじゃないと装備持ってこないのね?あと何回大破祭りやらなきゃいけないんだろ・・ -- 2016-01-23 (土) 04:44:03
      • 中戦車10台と重戦車5台で行ける一番楽なマスでも結構ドロップするからそっちを狙ってみては? -- 2016-01-23 (土) 21:57:12
      • 上の人が言ってる一番右のボスますはかなり楽だよ。ドロップもしやすい気がする -- 2016-01-24 (日) 23:51:58
      • 土日周回してたんだけど出ないわぁ。オスキン・ナウマンが大量発生しとる・・あと一日がんばってみるよ。情報ありがとう。 -- 2016-01-25 (月) 05:58:03
      • 右ルートを燃料弾薬尽きるまで回してなんとなく思った。道中で突撃砲引いたらまずハズレだな。 -- 2016-01-25 (月) 22:03:09
  • これ、リベンジじゃ出ないの?エルツしか出ないけど -- 2016-03-03 (木) 15:44:56
    • さっきTマスのボスからドロップしました -- 2016-03-04 (金) 00:44:33
    • 情報ありがとう -- 2016-03-06 (日) 12:55:58
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