ケーニッヒ のバックアップの現在との差分(No.4)
00は改良+強化+レベルMax時(とにかくMAX) 入手方法実装日:2015年12月22日 西部戦線III 限定ミリ姫 9-2ボスドロップ セリフ一覧
元ネタ紹介オイゲン・ケーニッヒ国防軍中将。(1896 - 1985) 第一次世界大戦で従軍し、二級鉄十字章を授与されるなど活躍するも、1918年に英軍の捕虜となって終戦を迎える。 1920年に釈放された後、一級鉄十字章を授与され軍を退役。 戦間期は公務員として働く。 ドイツ再軍備宣言後の1937年軍に復帰し、訓練教官などを務める。 1939年9月のポーランド侵攻時はフランス国境線側の警備についており、フランス侵攻時はマジノ線正面でいわば囮役を果たす。 その後はフランスに駐屯していたが、1942年2月、ブラウ作戦のため東部戦線に配属された。 第451擲弾兵連隊の指揮官に任官時の1943年11月4日付で陸軍大佐として第318番目の柏葉章を受章。 その後東部戦線で大きな被害を受けた部隊の再編と西部戦線の補強に伴いフランスへ帰還。 1944年6月のDデイでコタンタン半島の防衛にあたっていた第91空挺歩兵師団の指揮官が、第82空挺師団の急襲を受け死亡。 急遽指揮官に任命されるが、師団母体の第7軍はリュティヒ作戦で大損害を受ける。 1944年11月には第344歩兵師団司令官、その一ヶ月後には第272国民擲弾兵師団司令官となり、バルジの戦いでは第6SS装甲軍指揮下にはいる。 この攻勢が失敗に終わった後はモーデル指揮下のB軍集団に入り戦い続けたが、ルールポケットにてモーデルは自決し、ケーニッヒもついに降伏した。 戦後捕虜となり3年間収容所に入った後、1948年釈放されている。 シュトゥルムティーガー独ソ戦の戦訓からドイツ軍は市街地において大口径榴弾を用いた、歩兵を直接支援する突撃砲を求めた。 これに応える形で33B突撃歩兵砲が開発され、更に洗練されたⅣ号突撃戦車ブルムベアが完成したが、ドイツ軍はより強力な火砲の搭載を考えた。 当初21cm榴弾砲の運用が非常に難しかったことからこれの自走砲化も求められており、 一石二鳥の計画としてティーガー戦車の車体を利用して自走砲化が進められたものの、結局搭載は不可能なことが判明し計画は暗礁に乗り上げた。 ちょうどその頃ドイツ海軍では、沿岸部へ進行してきた敵の艦艇を攻撃するロケット臼砲が完成していた。 このロケット砲は口径の割に軽量のため海軍は自走砲化を計画したが、これに目をつけた陸軍はこの機材(562基材と呼ばれていた)を陸軍で使うと主張して、 早速これをティーガー戦車に搭載した自走臼砲の開発を始めた。 1943年8月、戦局打開兵器として示されたこの強力な自走臼砲をヒトラーはいたく気に入り、 早速量産計画の承認を出そうとしたが、同席した装甲兵総監グデーリアンはこんなものの役に立つかもわからない機材に、 貴重なティーガー戦車の生産力を割く訳にはいかないと猛反対。 結局試作車をとりあえず一両製作してみることにしたが、どの工場も急ピッチで新型戦車の製造が進められており、 結局前線から修理のため戻されてきたティーガー戦車の一台を改造して作ることになった。 まずティーガーの砲塔を外し、車体前面装甲と上面装甲をターレットリング後端で切除し、 傾斜装甲を装着するため車体前面装甲と接していた側面装甲の前端部を45度にカットした車体に、 正面150mm、側・後面80mmの戦闘室を被せて完成したこのシュトゥルムティーガーは2ヶ月後、ヒトラーの前にお目見えし、 大好評を得た。(隣りにいたグデーリアンの大不評も得た) 結局生産ラインが空かないため、シュトゥルムティーガーの製造は壊れたティーガーを改修するという形で製造が決まり、 1944年9月から12月末までに18両が完成した。 345kgのロケット榴弾を最大射程6000mで発射する臼砲の破壊力は絶大で、至近距離に着弾しただけでM4中戦車が横転、行動不能に陥るほどであった。 また直接射撃で撃破することも難しく、航空支援でもなければ不可能で、連合軍は航空偵察やスパイまで動員してその位置を探っている。 一方でその重量は砲弾と燃料を満載すると70tにも達し、ただでさえ過負荷であえぐティーガーの足回りに多大な負担をかけ破損の原因となった。 結局直接戦闘で撃破されることはほとんどなく、大半が故障や燃料弾薬の不足により自爆放棄されている。 後日談
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