ビヨット のバックアップの現在との差分(No.3)
00は改良+強化+レベルMax時(とにかくMAX) 入手方法ドロップもしくは探索 セリフ一覧
元ネタ紹介}} 元ネタはピエール・アルマンド・ガストン・ビヨット大尉。 1940年5月、フランス陸軍第41戦車大隊第1中隊の一員としてセダンの戦いに参加。 中でも激戦区だったストンヌ村にて独軍第10装甲師団とグロースドイッチュラント歩兵連隊と交戦。 村の中心部に陣取るドイツ軍戦車部隊に突撃を敢行し、IV号戦車2両・III号戦車11両の大戦果を上げる。 また、村の付近の丘陵に陣取っていた対戦車陣地も蹂躙した。 計140発以上の被弾の内、1発もビヨット車の装甲を貫くことは出来なかった。 フランス降伏以後も捕虜として捉えられるも脱走。 自由フランス軍に合流し、ド=ゴールの側近として参謀職に就いた。 戦後は国連への軍事援助の責任者、退役後は政府の要職を転任した 父親はフランス軍高官で戦略家であった、ガストン・ビヨット。 セリフ中に度々出てくる「お父様」とは彼の事。 お父様はドイツ軍侵攻の最中交通事故死している。 ルノーB1 bis1921年のこと、フランス軍はそれまでのシュナイダーCA1やサン・シャモン突撃戦車のような戦車を発展させ、 「車体に大きな大砲を搭載して陣地攻撃しつつ、歩兵を支援する小型砲を旋回砲塔に収めた重装甲の戦車を歩兵部隊と直協させる」というプランを考えついた。 早速開発が始まったものの2種類の大砲を搭載し、更に十分な装甲を加えるとなると当初予定の15tにはとても収まらず、 改めて20t級で開発を再開したものの当時の技術力で20tという車両を作るのは難しく、紆余曲折の末1931年ようやく試作車が完成した。 10年もかけたえらくのんびりした計画であるが、当時フランス軍にはFT-17のような進歩的な軽戦車や、 第一次大戦末期に作ってしまった超重戦車FCM 2Cと言った戦車が控えており、そんなに急ぐ必要もなかったのである。 試作車は様々なテストを経て3年後の1934年にようやく正式採用となったが、のんびりしていた間の技術革新も有り、 試作車完成前にもかかわらず新しい技術(特に大出力のエンジン)を用いた改良型の計画がすでに1930年にスタートしていた。 これがB1 bisである。(bisは2とか改ぐらいの意味) 車体前面及び側面装甲を60mmという前代未聞の重装甲とし、エンジン出力はそれまでの180馬力から250馬力、さらに300馬力へとパワーアップされたことで、 最大時速24kmを確保していた。 主砲も32口径の47mm砲と17口径75mm砲を装備し、非常に強力な戦車となったB1 bisは早速量産され、対独戦時には250両あまりが配備されていた。 前述のとおり設計思想が古いため、砲塔は1人で車長が操作するため極めて多忙であり、連携が取れず視界も悪かった。 さらにリベット留めされた装甲は重装甲とはいえ、貫通しないまでも砲弾の衝撃で弾けたリベットが車内で乗員を殺傷する危険があった。 また左側面に垂直にラジエーターグリルが付いており、ここを破壊されるとエンジンがオーバーヒートしてしまうというデザイン上の問題もあった。 配備数も少ない上に更に分散して配備されたため各個撃破されることも多かった。 しかしそのすさまじい重装甲はドイツ軍戦車や対戦車砲の砲撃でも容易に撃破できず、ビヨット大尉の乗るウール号のように140発の被弾を受けても全く止まらずドイツ軍を蹂躙したり、 ド・ゴール指揮下のジャンヌ・ダルク号のように90発の砲撃を受けてもなお止まらず味方を鼓舞し続け、 88mm砲の砲撃により史実のジャンヌ・ダルク同様炎に包まれるまで戦い続けるなど局地的には活躍した。 ドイツ軍はイギリス軍が投入したマチルダⅡとともにB1bisとの戦闘で対戦車戦闘能力の不足を痛感し、5cm砲の配備と7.5cm砲の開発を急ぐことになる。 後日談
元ネタ紹介コメント |
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示