ブルダ のバックアップの現在との差分(No.17)
00は改良+強化+レベルMax時(とにかくMAX) 入手方法探索や3-1、4-3などで出る。 ドロップもしくは探索 なお少々ヤンデレ気味。 セリフ一覧元ネタ紹介ソ連軍戦車エース、アレクサンドル・フョードロヴィッチ・ブルダが由来と思われる。カツコフの回想録にも登場する人物である。 なおブルダがKV-2に搭乗していた記録はなく、最初はT-35に機銃砲塔要員として搭乗、のちT-28とT-34-76の車長を務め30両以上の戦車を撃破した。 ソ連軍戦車エース、アレクサンドル・フョードロヴィッチ・ブルダが由来と思われる。カツコフの回想録にも登場する人物である。 なおブルダがKV-2に搭乗していた記録はなく、最初はT-35に機関銃砲塔要員として搭乗、のちT-28とT-34-76の車長を務め30両以上の戦車を撃破した。 開戦時、他の戦車兵の多くが10代後半から20代前半の若年者であった中、ブルダは30歳であり戦車兵としての経験も豊富なベテランであった。 T-28もT-35と同じく古めかしい機銃砲塔を持つ旧式の戦車だったが、1941年夏にブルダはT-28で8両の戦車と5両の装甲車両を撃破している。 1941年秋からは第4戦車旅団の第1戦車大隊に所属し、T-34に乗り換えてグデーリアンの装甲軍集団とモスクワ前面で戦った。 T-28もT-35と同じく古めかしい機関銃砲塔を持つ旧式の戦車だったが、1941年夏にブルダはT-28で8両の戦車と5両の装甲車両を撃破している。 1941年秋からは第4戦車旅団の第1戦車大隊に所属し、T-34に乗り換えてグデーリアンの装甲軍集団とモスクワ前面で戦った。 1942年夏に戦車が被弾し目を負傷したが、手術に成功し視力を失うことは免れている。 1943年夏のクルスク戦からは第49(64)親衛戦車旅団に属し、前線の一翼を担ってドイツ軍の攻勢を食い止めるも戦力の6割を失ったという。 1944年1月25日、コルスン-チェルカッシィ包囲戦において味方を撤退させるためにティーガーIを含む12両の敵戦車と単独で交戦、2両を行動不能にさせ味方の救援に成功したが、ブルダの戦車は被弾し、破片を受けたブルダは戦死した。32歳だった。 この包囲戦でブルダの旅団は14両のティーガーIを含む43両の戦車、9両の「フェルディナント」(おそらくは雑多な自走砲)を撃破したとされる。 生き残った彼の戦車のクルーは、「規律に厳しくよく混乱を収め、穏やかだが勇気のある人だった」と語っている。 KV-2KV-2はソ連が開発した重戦車。KVシリーズの第二作目で、開発段階ではただ単に「大砲塔KV」と呼称されていた。 車体はKV-1の変遷に準拠しており、車体前方機銃のない1939年型ベースからスプラッシュガードを持っているらしき1940年型後期型ベースまで様々である。 車体はKV-1の変遷に準拠しており、車体前方機関銃のない1939年型ベースからスプラッシュガードを持っているらしき1940年型後期型ベースまで様々である。 ただし増加装甲を装着したものは見当たらない。砲塔の大型化のため50t超に達した重量を少しでも抑えるためと思われる。 開発から間もなく冬戦争にて実戦投入された試作車両は、フィンランド軍のボフォース37mm対戦車砲の砲弾を尽く跳ね返しながら火点を潰し、重支援戦車としての有用性を証明した。 しかし主砲に分離装薬式を採用した事により発射レートは低く、砲塔の巨大化にも関わらずターレットリング径がKV-1と変わらなかったため、傾斜した場所では砲塔が旋回できない事もあった。 運用面でも支援戦車ではなく通常の戦車と同様の扱いで配備がなされ、有効な活用ができなかったため、独ソ戦の初期に多数が各個撃破されてしまった。 総生産数は諸説あり、202両とも300両以上とも言われる。 余談になるが、ラシェイニャイ市内の第6戦車師団とドゥビーサ川橋頭堡の歩兵部隊を分断すべく、たった一両のKV-2が送り込まれた。 このKV-2、搭乗員の名前は今でも不明である。 後日談
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