ベーケ のバックアップの現在との差分(No.15)
00は改良+強化+レベルMax時(とにかくMAX) 入手方法3-2-A 3-1-Cボスドロ確認(15/4/29) ドロップもしくは探索 セリフ一覧元ネタ紹介第503重戦車大隊のフランツ・ベーケ少佐である。
第503重戦車大隊のフランツ・ベーケ少佐である。 本人が言う通り、もともと歯医者であり当時の書類にも「Dr」とつけられていた。 東部戦線における「チェルカッスィ救援戦」では第三装甲軍団に所属していた部隊で 彼の名前を冠された、「ベーケ戦闘団」(または重戦車連隊)を率い善戦するも ソ連軍の抵抗と地理的要因(泥濘による行動力の低下) によって一時は行軍が止まるもルート変更によってなんとか チェルカッスィまであと10㎞の地点である239高地までたどり着いたが ベーケの戦車隊と同行した第16装甲師団の戦車 武装SSの装甲擲弾隊による攻撃、 そして ルーデル大佐をはじめとした航空部隊による支援爆撃をもってしても突破できずにいたのである。 そして ルーデル大佐をはじめとした航空部隊による支援爆撃をもってしても突破できずにいたのである。 (おそらく、ここら辺が「あと、ほんのわずか届かなかったね、、、」の元ネタ) この作戦の総指揮をとる南方軍集団司令官マンシュタインは、この事態に この作戦の総指揮をとる南方軍集団司令官マンシュタインは、この事態に 第二のスターリングラードを引き起こしてしまう危険性を考えた。そのため チェルカッスィに残る「シュテンマーマン隊」に単独での包囲脱出を打診し、 第三装甲軍団にはそれに対す全面支援を通達。チェルカッスィを放棄した、 シュテンマーマン隊の脱出が開始された。 無論、ソ連軍の容赦ない追撃があったものの第三装甲軍団あげての脱出路の構築 および、ベーケの戦車隊をはじめとする戦車部隊の239高地への決死の牽制攻撃が 功を奏し、戦死者はいたもののシュテンマーマン隊の全滅は避けることができた。 (約5万4000~6000人中 約3万5000人を救出できた) その後ドイツ軍は、全軍撤退した。 「第二のスターリングラード」を避けることはできたが、むろん投入された部隊の 損害も大きくドイツはさらに弱体化した東方戦線の考え直しを余儀なくされた。 ちなみに、この時のベーケ戦闘団には「虎の騎士」ことヴィットマンも所属していた模様。 そのほかに、セリフのとおりクルスクで 「戦車を生身(対戦車重火器を使ったとはいえ)で撃破した」り、ソ連軍の偵察部隊を 数度にわたって発見しフルボッコにして壊滅させている。要するに、凄い人である。 もちろん、こういった活躍から「柏葉剣付鉄騎十字章」を受章している。 パンター戦車D型ドイツ軍の機甲戦術理論に合わせて開発されたⅢ号戦車とⅣ号戦車であるが、そのデビュー前から次世代戦車の構想は計画されていた。 用途別に車台を分けるのではなく、統一されたプラットフォームを用意し、目的に合わせて装備のバリエーションをもたせれば運用も整備も楽になる。 早速次世代の20トン級戦車の開発計画がスタートしたが、独ソ戦の開戦によりドイツ軍はT-34の登場に衝撃を受け、 戦車開発計画の大幅な見直しを迫られた。 装甲兵総監となったグデーリアンは後に戦車委員会と呼ばれる調査団を東部戦線に派遣し、T-34を徹底的に研究。 これの利点を取り入れた上で上回る強力な戦車の開発計画に転換。 20トン級から30トン級へと拡大され、計画を秘匿するためⅤ号戦車という計画名はそのままに心機一転開発がスタートした。 (Ⅵ号戦車ティーガーよりデビューが遅いのはこのため) さて紆余曲折を経て基本レイアウトの決まったパンターであったが、開発を視察したヒトラーから突如前面装甲の20mm増加を求められたこともあり、 増大した重量はエンジンや駆動系に大きな負担をかけた。 30トン級から35トン級として始まった計画も完成品は45トンという重戦車そのものだったが、パンターはあくまで中戦車として扱われた。 デビュー戦となるクルスクでは車体の問題に加え実戦経験の不足した部隊への配備も相まって期待した活躍はできなかったが、 欠点を改良され運用になれるとドイツ軍戦車部隊の中核を担った。 ヒトラーが強く要望した砲塔正面100mm、車体正面は傾斜した80mmの重装甲は連合軍戦車の砲弾をことごとく弾き返し、 70口径7.5cm砲は2000m離れた敵戦車を一方的に撃破できた。 パンターD型は初期の生産型である。初期はA型と呼ばれていたはずなのだがいつの間にかD型になり、 改良型がA型と呼ばれるようになった。 防諜や敵を撹乱するためとか、書類上の間違いとかいろいろ言われるがはっきりとした理由は不明。 後日談
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