マキシム・ゴーリキー のバックアップ差分(No.3)

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[[イベント/マキシム・ゴーリキーを攻略せよ]]に登場するボスキャラ。


*兵器紹介 [#k69dff3c]
&color(Maroon){''マクシム・ゴーリキー''};(ロシア語: Макси́м Го́рький マクスィーム・ゴーリキイ)は、ソ連の巡洋艦である。艦名は、ソ連の大作家マクシム・ゴーリキーを記念したものである。艦の規模からは軽巡洋艦、ソ連には無関係であるが、ロンドン海軍軍縮条約の規定に沿った分類では重巡洋艦に分類される。

&color(Maroon){''マクシム・ゴーリキー''};(ロシア語: Макси́м Го́рький マクスィーム・ゴーリキイ)は、ソ連のセヴァストポリ要塞に設置された沿岸砲台である。
名前は作家のマクシム・ゴーリキーにちなむ。
砲台としての番号はマクシム・ゴーリキーⅠが30番、マクシム・ゴーリキーⅡが35番。
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マクシム・ゴーリキーの建造計画はロシア帝国時代の1905年ごろに始まった。
当時は日露戦争の直後であり、旅順要塞戦の経験から1860年代~1870年代に作られたセヴァストポリ要塞が陳腐化していることが判明していた。
また日本海軍の斉射戦術の影響から、ドレッドノートのような遠距離砲撃戦を主体とした戦艦の登場にも拍車がかかっており、セヴァストポリ要塞に設置されていた旧式の沿岸砲台では火力・射程ともに不足することが予想された。
そのため海軍戦力の低下したロシア帝国にとって、沿岸砲台や永久要塞の近代化は急務となっていたのである。
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1941年6月22日に大祖国戦争が開始されると、即日赤色海軍は最新鋭巡洋艦&color(Maroon){''マクシム・ゴーリキー''};を中心とした小艦隊を編成し、フィンランド湾における機雷戦を開始した。しかし、A・N・ペトローフ中佐を艦長とするマクシム・ゴーリキーは、作戦開始初日の6月23日早朝に北緯59度20分 東経22度20分の海域において触雷し、艦首部分を失うという憂き目に見舞われた。マクシム・ゴーリキーはどうにか自力でヴォルムシ島まで辿り着き、翌24日には救難艦ネプトゥーン、海洋観測艦ロオト、4隻の駆逐艦、4隻の掃海艇、3隻の小型駆潜艇および魚雷艇に付き添われてタリンに回航された。しかし、正午過ぎには先頭を航行していた掃海艇T-208が触雷により沈没し、艦隊はヴォルムシ島へ引き返した。その後、18時15分に艦隊は再びタリンを目指して出航し、翌日目的地へ到着した。6月26日深夜2時には、マクシム・ゴーリキーは3 隻の駆逐艦、6 隻の掃海艇、6 隻の魚雷艇、4 隻の警備艇に付き添われてクロンシュタットへ向けて出航した。クロンシュタットへは日中に到着し、そこで8月1日まで修理に入った。その後、航行試験を受けたため、ドイツ空軍のクロンシュタット大空襲を免れた。

設計は要塞専門家のツェーザリ・キュイとニコライェフスキー工学アカデミーによってなされ、1912年から建造が開始された。
主砲には折りよく新型弩級戦艦であるガングート級の主砲があったためにそれを採用し、52口径30.5cm2連装砲となった。
砲塔部分には406mmの装甲板を配置したためその重量は1360トンに及び、また地下の弾薬庫や電源区画は130メートルにわたって厚さ4メートルの鉄筋コンクリートで防御されていた。
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9月8日には、ドイツ軍に向けて初めて主砲を放った。陸上部隊への援護射撃は、12月25日まで継続された。この間、9月17日と18日に150 mm砲弾5 発を受けた。9月21日には、さらに1 発の砲弾を受けた。そのため、9月22日には再び修理に入った。その後、11月23日には直撃弾を受け、損傷を負った。

しかし1914年に第一次世界大戦が勃発すると、マクシム・ゴーリキーに据えられるはずの砲塔は対ドイツ用にバルト海に振り分けられてしまい、要塞の建造は中断されてしまった。
結局、ロシア帝国が崩壊したときに完成していたのは防御区画と後方連絡線の鉄道やクレーンだけで、砲塔や電源などは全く配備されないまま終戦を迎えることになる。
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1942年1月7日には、新たにI・G・スヴャトーフ中佐が艦長に任官した。1月21日には、またしても直撃弾を受け一時戦列を離脱せざるを得なくなった。

計画が再始動したのはロシア内戦の終結からしばらく経った1928年になってからで、余裕の無さから要塞の設計にはほとんど変更が加えられることがなかったが、#br
砲塔はMb-2-12という形式のものに変更され重量が770トンになり装甲は300mmほどに薄くなった。
同時に新兵器である航空機への対策として、高射砲陣地や対空機関砲陣地などが新たに整備された。
また砲はガングート級のものからインペラトリッツァ・マリーヤ級のものに変更され、連射性能が向上した。
これは事故で沈没したインペラトリッツァ・マリーヤの砲塔を引き上げ流用したもので、元は3連装だったが設計上砲塔スペースに収まらないため2連装に改造し、
あまった1門は列車砲として運用されることになった。セヴァストポリ要塞では二基の砲台を作ったので、二門の列車砲が出来たことになる。
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2月9日には、敵部隊に対して20 発の砲弾を発射した。4月4日には、航空機より至近弾を受けた。4月22日には18 発の砲弾を敵の砲兵隊に向けて発射した。4月24日には空襲により損傷を受けた。このとき、4 名が戦死し、8 名が負傷した。4月28日には、艦は修理に入れられた。

全ての建設が終わったのは1936年になってからで、計画から30年が経過していた。
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戦列へ復帰したのちも、6月27日には砲撃により損傷を受けた。7月9日と8月28日には対地砲撃を実施した。
1943年2月13日には、A・G・ヴァリファチエフ中佐が艦長に就任した。

マクシム・ゴーリキーの攻撃力は凄まじく、歩兵はかなり離れた位置でも爆圧によって内蔵を損傷し、トラックは衝撃波だけで横転して使用不能になった。
守備部隊のD. Piskunovによると
「300メートルまで接近してドイツ戦車が砲台を撃っていた。次の瞬間、轟音が響き大地が震えた。
塹壕から覗いてみるとそこには何もなくなっていた。ただ大地と塵があるだけだった」
という。
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ドイツ軍はマクシム・ゴーリキーを攻略するための多数の重砲・超重砲を持ち込み、奮闘空しくマクシム・ゴーリキーは破壊された。
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しかし戦後になるとガングート級戦艦ポルタヴァの砲塔を用いてマクシム・ゴーリキーは再建されることになる。
だがこれは砲塔をそのまま埋め込んだもので大戦中の姿とは異なり3連装砲となっていて、砲台番号も25と26になっている。

ナチス・ドイツ軍の包囲によりレニングラート防衛戦が始まると、マクシム・ゴーリキーはその海上支援に従事した。1944年1月13日に赤軍が最後の攻勢を掛けた際には洋上よりドイツ軍陣地に向けて艦砲射撃を実施した。1月19日まで継続された砲撃の間、マクシム・ゴーリキーは主砲だけで674 発もの砲弾を発射し、ドイツのレニングラート包囲軍に止めを刺した。このときの功績により、同年3月22日には艦は赤旗勲章を授与された。

その後、1944年5月18日にはネパートィ居住区を砲撃し、6月9日にはフィンランド軍要塞の破壊作戦に参加した。

大祖国戦争の期間中、マクシム・ゴーリキーは2311 発の180 mm砲弾を使用し、100 mm砲弾は582 発を発射した。また、戦闘中における艦砲の用法は、その44 %が両用砲として用いられ、水平射撃に用いられたのは30%に過ぎなかった。

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[引用] [[Wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%BC_(%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)]]
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