マキシム・ゴーリキー のバックアップソース(No.4)
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[[イベント/マキシム・ゴーリキーを攻略せよ]]に登場するボスキャラ。


*兵器紹介 [#k69dff3c]
&color(Maroon){''マクシム・ゴーリキー''};(ロシア語: Макси́м Го́рький マクスィーム・ゴーリキイ)は、ソ連のセヴァストポリ要塞に設置された沿岸砲台である。
名前は作家のマクシム・ゴーリキーにちなむ。
砲台としての番号はマクシム・ゴーリキーⅠが30番、マクシム・ゴーリキーⅡが35番。
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マクシム・ゴーリキーの建造計画はロシア帝国時代の1905年ごろに始まった。
当時は日露戦争の直後であり、旅順要塞戦の経験から1860年代~1870年代に作られたセヴァストポリ要塞が陳腐化していることが判明していた。
また日本海軍の斉射戦術の影響から、ドレッドノートのような遠距離砲撃戦を主体とした戦艦の登場にも拍車がかかっており、セヴァストポリ要塞に設置されていた旧式の沿岸砲台では火力・射程ともに不足することが予想された。
そのため海軍戦力の低下したロシア帝国にとって、沿岸砲台や永久要塞の近代化は急務となっていたのである。
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設計は要塞専門家のツェーザリ・キュイとニコライェフスキー工学アカデミーによってなされ、1912年から建造が開始された。
主砲には折りよく新型弩級戦艦であるガングート級の主砲があったためにそれを採用し、52口径30.5cm2連装砲となった。
砲塔部分には406mmの装甲板を配置したためその重量は1360トンに及び、また地下の弾薬庫や電源区画は130メートルにわたって厚さ4メートルの鉄筋コンクリートで防御されていた。
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しかし1914年に第一次世界大戦が勃発すると、マクシム・ゴーリキーに据えられるはずの砲塔は対ドイツ用にバルト海に振り分けられてしまい、要塞の建造は中断されてしまった。
結局、ロシア帝国が崩壊したときに完成していたのは防御区画と後方連絡線の鉄道やクレーンだけで、砲塔や電源などは全く配備されないまま終戦を迎えることになる。
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計画が再始動したのはロシア内戦の終結からしばらく経った1928年になってからで、余裕の無さから要塞の設計にはほとんど変更が加えられることがなかったが、#br
砲塔はMb-2-12という形式のものに変更され重量が770トンになり装甲は300mmほどに薄くなった。
同時に新兵器である航空機への対策として、高射砲陣地や対空機関砲陣地などが新たに整備された。
また砲はガングート級のものからインペラトリッツァ・マリーヤ級のものに変更され、連射性能が向上した。
これは事故で沈没したインペラトリッツァ・マリーヤの砲塔を引き上げ流用したもので、元は3連装だったが設計上砲塔スペースに収まらないため2連装に改造し、
あまった1門は列車砲として運用されることになった。セヴァストポリ要塞では二基の砲台を作ったので、二門の列車砲が出来たことになる。
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全ての建設が終わったのは1936年になってからで、計画から30年が経過していた。
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マクシム・ゴーリキーの攻撃力は凄まじく、歩兵はかなり離れた位置でも爆圧によって内蔵を損傷し、トラックは衝撃波だけで横転して使用不能になった。
守備部隊のD. Piskunovによると
「300メートルまで接近してドイツ戦車が砲台を撃っていた。次の瞬間、轟音が響き大地が震えた。
塹壕から覗いてみるとそこには何もなくなっていた。ただ大地と塵があるだけだった」
という。
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ドイツ軍はマクシム・ゴーリキーを攻略するための多数の重砲・超重砲を持ち込み、奮闘空しくマクシム・ゴーリキーは破壊された。
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しかし戦後になるとガングート級戦艦ポルタヴァの砲塔を用いてマクシム・ゴーリキーは再建されることになる。
だがこれは砲塔をそのまま埋め込んだもので大戦中の姿とは異なり3連装砲となっていて、砲台番号も25と26になっている。

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//[引用] [[Wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%BC_(%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)]]

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