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白作戦 謎の敵によって侵略された旧ポーランド領へ進軍せよ!人類が蜂起する時がきたのだ!
ミッション元ネタ ドイツ軍によるポーランド侵攻作戦の秘匿名「白作戦」または「白の場合(Fall Weiß)」が元ネタ。 独ソ不可侵条約締結後の1939年9月1日、ドイツは「ドイツ領のラジオ局にポーランドが攻撃をした」としてポーランドへ侵攻。 ポーランドの同盟国だったイギリスとフランスが9月3日に対独宣戦を布告、第二次世界大戦の口火が切って落とされた。
勿論これはドイツによって周到に用意された自作自演の作戦であった。 準備万端整った大規模な独軍に対してポーランドはまともに対応出来ず後退、ソ連国境付近に防御陣地を構築し同盟国の支援を待つことになるが、 今度は「ウクライナ、ベラルーシ系住民の保護」を名目にポーランド軍の背中になんとソ連軍が襲い掛かってきた。 実は不可侵条約締結時、独ソ両国間で「ドイツが侵攻したらソ連も侵攻してポーランドを分割統治しようずw」という密約が交わされていたのだ。 東西から挟撃されたポーランド軍はイギリスとフランスの援軍到着を信じて必死に抵抗し、ルーマニア橋頭堡地方へと退却して抗戦を続けたが・・・援軍はついに到着しなかった。 当然である。実際にはイギリスもフランスも一兵たりとも派遣していない、するつもりもなかったのだから。 「ほら、塹壕戦にでも持込んでドイツ疲弊させりゃ勝手に和平結ぶでしょ」という傍観主義であった上、ソ連の参戦を見て完全に介入する気をなくしていたのである。 当然この事はポーランド側には知らされておらず、同盟の義務条項を頑なに守り続けて降伏せず戦い続けていた。
その後、亡命したポーランド人は自由ポーランド軍として連合軍に参加、凄まじい敢闘精神を発揮し各地の戦線で活躍し、 国に残った者もドイツ軍に対して猛烈なレジスタンス活動を展開、抵抗組織は20団体近く組織されドイツ軍を疲弊させていくのであった。
因みにこの9月侵攻に於いてポーランド側で名を上げたのはオルリックで、侵攻したソ連軍指揮官にはティモシェンコが居た。
1918年、第一次世界大戦終結後に締結されたヴェルサイユ条約の民族自決の原則によって主権が回復され、念願の独立を果たすことになったポーランド。 その国家としての第一歩として取り掛かった事業は、シベリアに取り残された孤児の救済であった。 かつて分割統治された時代、国のために立ち上がった政治家や思想家達はロシアによって政治犯としてシベリアへ家族共々抑留されていた。 その後もロシアとドイツによる戦争、いわゆる東部戦線の主戦場となった事や続く内戦などから多くのポーランド流民がシベリアへと流れてもいた。 彼らは食料も医薬品も無くシベリアの荒野をさ迷い歩き、飢え、凍え、次々と力尽きて倒れていったという。 せめて残された孤児だけでも助けたい。その思いから政府は「ポーランド救済委員会」を設立し救出に乗り出したのである。
1920年にポーランドはソ連との戦争状態に入っており、シベリア鉄道を使った孤児の輸送は絶望的であった。 そこで委員会は関わりの深かったフランスやイギリスに働きかけ、アメリカ等シベリアに出兵していた国家にも救助を要請するが 大国ソ連のくしゃみを恐れた欧米列強()各国は、そのポーランドの懇願を取り付く島もなく冷淡に拒否した。
そんな悲哀に満ちた小国を救った国が、一国だけあった。
Aの分岐は歩兵(機械化歩兵含む)が1人でもいればCへ、1人もいなければBへ向かう。
ドロップ
マンシュタイン・プラン
旧イギリス・フランス領に留まる敵部隊に攻勢をかけるべく敵防御網の薄いアルデンヌの森へ!
ミッション元ネタ マンシュタイン・プランとはA軍集団参謀長エーリヒ・フォン・マンシュタイン中将(当時)が描いたフランス侵攻計画のこと。 元々「黄計画(Fall Gelb)」または「黄の場合」と呼ばれていた計画を大胆に修正したもので、「大鎌作戦」とも呼ばれる。
ゲーム上のマップはマンシュタインによって修正された「黄作戦」のうちドイツ軍B軍集団のベルギーの戦いのもの。 B軍はベルギーとオランダへ攻勢をかけ、アルデンヌを突破するA軍から注意を逸らすという役目を持っていた。 1940年5月10日、ベルギーは対ドイツの最重要防衛線であるエバン・エマール要塞をドイツの降下猟兵によってたった24時間で陥落させられて後退、 戦線を維持できなかったベルギー軍に対して、援護に来た英仏連合軍は不信感を抱き大なり小なり軋轢が生じる結果となり、ジリジリと戦線は下がり続けた。 17日には首都ブリュッセルが陥落、ベルギーは5月27日にドイツへと降伏することになる。
因みにこのとき援護に来たイギリス軍を率いていたのはモントゴメリーだったが、 11日にベルギーに到着するや否やベルギー軍にドイツ軍と誤認されて攻撃を受けている。 この程度の損害は、計算の・・・・う、うちよ!
分岐もなく一本道の簡単な作り。 敵は最大3体なのでこちらも同数以上ならまあ負けることはないだろう。
パリ電撃戦
敵が我が軍の突入に対し防衛を固める前に、重要拠点パリに突入し、奪回するのだ!
ミッション元ネタ ドイツによる「黄作戦」に次ぐフランス侵攻作戦第二段階「赤の場合(Fall Rot)」または「赤作戦」が元ネタと思われる。
1940年5月13日、アルデンヌの森を抜け当初から懸念されたムーズ河の渡河にも成功したドイツ軍A軍集団はついにセダンへと到達、フランス本土侵攻の足掛りを得た。 ドイツ軍がベルギーに主力を差し向けてきたと完全に思い込み、同地に防衛線を敷いていた連合軍は完全に虚を突かれた形となり、 背後から挟撃を受ける前にスタコラサッサだぜーとばかりに総退却を決定、何とかフランスへ退却しようと試みる。
ダンケルク攻囲戦を終えたドイツ軍が次に取り掛かったのは未だにマジノ線に引き篭もるフランス軍の撃破と、パリの制圧である。
ここへきて国家滅亡が現実的になったフランスも、総司令官ウェイガンが格子状の陣地を構築する新戦術の縦深戦術で果敢に抵抗を試みるが、 フランス政府は6月10日、パリを放棄。後背を突かれたマジノ線も無力化され、万策尽きたフランスは6月22日休戦条約に調印。ドイツの傀儡国家ヴィシー・フランスと成り果てるのである。 この時ド・ゴール准将(当時)はイギリスに亡命「自由フランス軍」を結成した。
A・Bともに分岐はランダム? Bの回復マスが初登場。理屈の上では10回踏めば体力を全快できる。 食料やお金が少なく燃料と弾薬に余裕があるなら通いつめて回復させることも可能ではあるが、 大破してると運悪く敵の攻撃で擱座した場合取り返しがつかないので油断は禁物。
ブレスト掃討戦
敵はブレスト港から退却する。ブレストを抑える敵を掃討せよ!
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コメントはありません。 マップ1ドロップ?
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