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TITLE:西部戦線

#include(マップ項目,notitle)
#contents

*1-1 [#a1]
&color(Maroon){''白作戦''};
謎の敵によって侵略された旧ポーランド領へ進軍せよ!人類が蜂起する時がきたのだ!
#region(ミッション元ネタ)
ミッション元ネタ
ドイツ軍によるポーランド侵攻作戦の秘匿名「白作戦」または「白の場合(Fall Weiß)」が元ネタ。
独ソ不可侵条約締結後の1939年9月1日、ドイツは「ドイツ領のラジオ局にポーランドが攻撃をした」としてポーランドへ侵攻。
ポーランドの同盟国だったイギリスとフランスが9月3日に対独宣戦を布告、第二次世界大戦の口火が切って落とされた。
#br
勿論これはドイツによって周到に用意された自作自演の作戦であった。
準備万端整った大規模な独軍に対してポーランドはまともに対応出来ず後退、ソ連国境付近に防御陣地を構築し同盟国の支援を待つことになるが、
今度は「ウクライナ、ベラルーシ系住民の保護」を名目にポーランド軍の背中になんとソ連軍が襲い掛かってきた。
実は不可侵条約締結時、独ソ両国間で「ドイツが侵攻したらソ連も侵攻してポーランドを分割統治しようずw」という密約が交わされていたのだ。
東西から挟撃されたポーランド軍はイギリスとフランスの援軍到着を信じて必死に抵抗し、ルーマニア橋頭堡地方へと退却して抗戦を続けたが・・・援軍はついに到着しなかった。
当然である。実際にはイギリスもフランスも一兵たりとも派遣していない、するつもりもなかったのだから。
「ほら、塹壕戦にでも持込んでドイツ疲弊させりゃ勝手に和平結ぶでしょ」という傍観主義であった上、ソ連の参戦を見て完全に介入する気をなくしていたのである。
当然この事はポーランド側には知らされておらず、同盟の義務条項を頑なに守り続けて降伏せず戦い続けていた。
ポーランドはまたもや国際社会から見放され、孤立することになったのだ。小国の悲哀、ここに極まれり・・・である。
この形ばかりの同盟と、宣戦しても戦わなかったイギリスとフランスの対独ソ戦争は「まやかし戦争」と呼ばれる事になる。
#br
首都ワルシャワも民間人からなる義勇兵も参加して応戦を続けたが、大規模な戦力で攻めて来るドイツ軍と捕虜や民間人を虐殺しながら迫るソ連軍の前に9月28日に陥落。
抵抗を続けた最後の陸軍部隊、[[クレーベルク]]将軍率いる独立作戦部隊「ポレシェ」も食料と弾薬が尽き10月6日に投降し、ポーランド第二共和国は事実上崩壊するのである。
#br
その後、亡命したポーランド人は自由ポーランド軍として連合軍に参加、凄まじい敢闘精神を発揮し各地の戦線で活躍し、
国に残った者もドイツ軍に対して猛烈なレジスタンス活動を展開、抵抗組織は20団体近く組織されドイツ軍を疲弊させていくのであった。
#br
因みにこの9月侵攻に於いてポーランド側で名を上げたのは[[オルリック]]で、侵攻したソ連軍指揮官には[[ティモシェンコ]]が居た。
#br
#region(余談:小国の悲哀と八紘一宇)
ポーランドの孤立を「またも」と記したが、以前にもポーランドは幾度か国際社会から見捨てられた過去がある。
ポーランドはロシア、ドイツ(プロイセン)、オーストリアという強国に囲まれていて、それらの国家の勢力争いに巻き込まれ
国家自体が消滅していた事もある、過酷な歴史をもつ国家である。
#br
1918年、第一次世界大戦終結後に締結されたヴェルサイユ条約の民族自決の原則によって主権が回復され、念願の独立を果たすことになったポーランド。
その国家としての第一歩として取り掛かった事業は、シベリアに取り残された孤児の救済であった。
かつて分割統治された時代、国のために立ち上がった政治家や思想家達はロシアによって政治犯としてシベリアへ家族共々抑留されていた。
その後もロシアとドイツによる戦争、いわゆる東部戦線の主戦場となった事や続く内戦などから多くのポーランド流民がシベリアへと流れてもいた。
彼らは食料も医薬品も無くシベリアの荒野をさ迷い歩き、飢え、凍え、次々と力尽きて倒れていったという。
せめて残された孤児だけでも助けたい。その思いから政府は「ポーランド救済委員会」を設立し救出に乗り出したのである。
#br
1920年にポーランドはソ連との戦争状態に入っており、シベリア鉄道を使った孤児の輸送は絶望的であった。
そこで委員会は関わりの深かったフランスやイギリスに働きかけ、アメリカ等シベリアに出兵していた国家にも救助を要請するが
大国ソ連のくしゃみを恐れた欧米''列強''()各国は、そのポーランドの懇願を取り付く島もなく冷淡に拒否した。
国際政治のリアリズムといえばそれまでだろうが、あまりにも酷薄すぎる即断ではなかろうか・・
#br
そんな悲哀に満ちた小国を救った国が、一国だけあった。
#br
万策尽き果て望みも絶たれ、藁にもすがる思いで委員会が訪れたのは、何の関係も交友も無い、国交を結んだばかりで大使館すらない、
遠く地球の裏側の、アジアの果てにある小さな新興の島国--日本の外務省であった。
死の淵にある孤児たちの窮状を切々と訴えるポーランドに対し、日本外務省の動きはポーランドすら予想外の尋常でないレベルの早さであった。
即座に日本赤十字社に連絡を取り、わずか17日後には日本による孤児救出が決定されたのである。
シベリアに展開していた日本帝国陸軍によって決定の二週間後には56名、その後二回に渡って行われた救済事業では765名の孤児が救出され
日本での体調回復の後に孤児たちは無事、故郷の地を踏むことができたのである。
#br
日本にとってまったく益にならないこの行動を説明する際、「八紘一宇の精神から」とされる場合が多い。
八紘一宇とは日本書紀から引用し縮約された語で「八つの方位(世界)をひとつの家(一宇)とする」という意味を持つ。
今風に言うならば「人類みな兄弟」といったところだろうか。
要するに見知らぬ異国の人々であっても、八紘一宇の精神に照らし合わせれば兄弟なのだから、助けるのは当たり前である、というわけだ。
しかし軍部や政府によって政策標語として頻繁に使われたことから、戦後にはGHQより軍国主義を助長するのためのプロパガンダであると見做され
神道指令によって「悪語」とされて公文書やマスコミによる使用を禁止されてしまっている。
果たしてこの言葉は、軍が民衆を扇動するために使ったモノであったか、それとは別の人道的、道徳的な標語であったか、それは諸兄の判断に任せるが、
ナチスに迫害されるユダヤ人の窮状を見かね、同盟国ドイツや本国の意思に反して難民たちに大量のビザを発行した杉原千畝や、
そのビザによって、シベリア鉄道に乗りウラジオストクまでやってきた難民の受け入れに難色を示した日本外務省すら敵にまわす覚悟で
日本行きの乗船許可証を出した、ウラジオストク総領事代理の根井三郎らの行動は「人類みな兄弟だ!」で説明できるものではなかろうか。
#br

#endregion
#endregion

&attachref(./1-1.jpg,nolink,);
Aの分岐は歩兵(機械化歩兵含む)が1人でもいればCへ、1人もいなければBへ向かう。

|||名称|地形|基本&br;経験値|敵バタリオン[HP]|h
|CENTER:20|BGCOLOR(#aaa):|160|CENTER:|RIGHT:|220|c
|A|&ref(画像置場/戦場.png,nolink,80%);|カリシュの戦い|平原|50|1歩兵[15]|
|B|&ref(画像置場/戦場.png,nolink,80%);|ブィドゴシュチュの戦い|平原|50|1歩兵[15]2歩兵[15]|
|C|&ref(画像置場/ボス.png,nolink,80%);|ワルシャワ攻略戦|平原|80|1歩兵[15]2歩兵[15]|

#region(ドロップ)
ドロップ
|20|160|70|70|160|70|70|70|70|c
||軽戦|中戦|重戦|歩兵|突+駆|自走|指揮|航空|h
|A|[[サモヒン]] [[ナイディン]] [[オルリック]] [[クレーベルク]] [[ブロニコフスキー]]|||[[シシュコ]] [[リベルエーリ]] [[ラムケ]] [[カッツァーゴ]] [[トルニ]] [[ユーティライネン]]|||||
|B|サモヒン クレーベルク|||ユーティライネン トルニ カッツァーゴ|||||
|C|サモヒン ナイディン オルリック ブロニコフスキー クレーベルク|||ラムケ トルニ ユーティライネン シシュコ|||||
#endregion
*1-2 [#a2]
&color(Maroon){''マンシュタイン・プラン''};

旧イギリス・フランス領に留まる敵部隊に攻勢をかけるべく敵防御網の薄いアルデンヌの森へ!
#region(ミッション元ネタ)
ミッション元ネタ
マンシュタイン・プランとはA軍集団参謀長エーリヒ・フォン・[[マンシュタイン]]中将(当時)が描いたフランス侵攻計画のこと。
元々「黄計画(Fall Gelb)」または「黄の場合」と呼ばれていた計画を大胆に修正したもので、「大鎌作戦」とも呼ばれる。
#br
そもそもの「黄作戦」はベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)を攻撃し、フランスの侵攻を妨げ各前線基地を得る程度の、
第一次大戦でドイツが悲惨な消耗戦に追い込まれたシュリーフェン・プランの焼き直しとも呼べるモノだったが、マンシュタインが修正した計画は
ここでちょっと話は昔に戻って1871年。
ドイツ統一が果たされドイツ帝国が誕生すると、東は大国ロシア、西は強国フランスと国境を接していた。
ドイツは国家として成立した直後から、「もし戦争が起きたら?しかもフランスとロシアが手を組んだら…?」という東西の脅威にさらされることになる。
ドイツ陸軍の父、大モルトケは両方を同時に相手取ることは出来ないから、どちらか片方を素早く倒して残る方と戦うべきと考えていたが、
どっちを先に攻撃すべきかは決めかねていた。
やがて大モルトケが没し、2代後に参謀総長に就任したシュリーフェンは、東のロシア帝国側は地形が悪く、鉄道網も少ないことから進撃には時間がかかる、
逆にロシアが攻めてくるにも時間がかかると判断し、どちらかを倒すならまずフランスを、そして戦争が終わったら発達した鉄道網でフランスに送った軍をすぐに引き戻そうと考えた。
そしてフランスを可及的速やかに撃破するために考案されたのが「シェリーフェン・プラン」である。
#br
ここでドイツ・フランス間の地形を見てみよう。
&attachref(./ドイツ地形(現代).JPG,nolink,50%);
ベルギー南部からフランスと国境を接しているエリアは起伏に富み、森があり、川があり、現代でも交通網が少ないのに対し、ベルギー側は平坦な地形で交通網が発達している。
つまり軍隊が進むにも、国境を接した場所から進軍するよりベルギー側を迂回したほうが早く進めるのだ。
そこでシェリーフェンはすさまじい計画を考えた。
&attachref(./WW1シェリーフェン計画.jpg,nolink,50%);
中央軍と左翼軍でフランスへ攻め入ると見せかけてフランス軍の主力を引き付け、その間に進軍しやすいベルギー国内を通ってフランス北部へ侵入。
パリを叩いた後敵の背後を攻撃しようという斬新な発想である。
無論大移動しなければならない右翼軍の苦労は大変なものであり、その補給線なども大きな問題であったが、フランスを攻めるには最も効果的であると考えられた。
当然ベルギーを素通りできるのかとか、国際的な反発がとかそういう政治的なところはすっぽり抜けていた。
政治は政治家が、軍事は軍人がやるのがプロイセン流であり、政治をビスマルクが、軍事を大モルトケがやっていた頃は実際これが成功していた。
しかしもはや二人共いないのである。
結局第一次大戦でこの計画は実行に移されるが、右翼より中央軍を強化しちゃったりベルギーの猛反発と抵抗にあったり、
その抵抗の間にフランス軍の防衛線が間に合って右翼の進撃が停止したりしてプランは崩壊した。
#br
さて20年経って再びフランスとドイツが戦火を交えようというとき、もう一度このシェリーフェン・プランは持ちだされた。
ただし作戦名は「黄作戦」と名前を変えて。
とは言え中身はベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)を攻撃し、フランスの侵攻を妨げ各前線基地を得る程度の、
シュリーフェン・プランの焼き直しとも呼べるモノだったが、マンシュタインが修正した計画は
「B軍によってオランダ、ベルギーを攻撃、連合軍を陽動しつつ釘付けにし、その隙を突きA軍機甲部隊でアルデンヌの森を突破、
フランス自慢の要塞線マジノ線はC軍に任せて一気にパリ、英仏海峡地域までを制圧する」
という斬新なものだった。(ちなみに機甲部隊を使えばB軍とA軍の機動力を上げることができるとマンシュタインに吹き込んだのは[[グデーリアン]]である)
&attachref(./WW2マンシュタイン計画.jpg,nolink,50%);
自然の要害アルデンヌさえ抜ければ、先に待つのは戦車に好適な広大な平地のみ。決して不可能ではないプランだったが、
「A軍のええかっこしいめ!一気にフランスとれるわけねぇだろJK・・兵法も知らぬ凡愚めが!」とばかりに陸軍上層部「OKH」に握りつぶされてしまう。
#br
そしてここで運命のイタズラが起き、幸運にも・・いや、ある当事者にとっては不幸だったが、このプランが脚光を浴びる事件が起きる。
その不幸なある当事者とは一人の参謀将校である。彼は会議に出席する為、同僚に連絡機でケルンへと送ってもらうことになった。
しかし悪天候に阻まれ、国境を越えてベルギーの畑に墜落・・二人はベルギーの当局に逮捕されて作戦の書類を回収されてしまったのだ。
激怒するヒトラー、延期を余儀なくされる作戦・・どうすんだこれ?という雰囲気の中、颯爽と現れた人物がいた。
マンシュタインの上司であり、プランの良き理解者だったA軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将である。
彼はマンシュタイン・プランの有用性を説きヒトラーに上申すべきと主張、最初はマンシュタインを懲罰的に左遷したりと反抗したOKHも次第に理解を示し始めた。
そしてポーランドの歩兵部隊へトばされたマンシュタインも「新任司令官はヒトラーと会合するのが慣例」になっていたのを利用して会合の場でヒトラーに直訴、
自分でも「どうにかアルデンヌ抜けて一気にセダンまでいけないもんかなぁ」と思っていた上、派手好き、新しモノ好きのヒトラーはこのプランを気に入ったという。
そしてついにOKHはマンシュタイン・プランを認めざるを得なくなり、中でも早い段階に理解を示したフランツ・ハルダー将軍のキモ入りで更に煮詰められ採用されたのであった。
しかし当のマンシュタインがポーランドから呼び戻されることはなく、彼は自分が立案した計画の日の目を見ることはできなかったのだった・・・
(ハルダーらは「歩兵部隊と機甲部隊が連携し、強固に(そして遅い)進撃する」というプランでなおも否定的な上層部を納得させ、
実際はグデーリアンや[[ロンメル]]ら機甲師団指揮官が故意に命令違反を犯してさっさと進軍している)
#br
ゲーム上のマップはマンシュタインによって修正された「黄作戦」のうちドイツ軍B軍集団のベルギーの戦いのもの。
B軍はベルギーとオランダへ攻勢をかけ、アルデンヌを突破するA軍から注意を逸らすという役目を持っていた。
1940年5月10日、ベルギーは対ドイツの最重要防衛線であるエバン・エマール要塞をドイツの降下猟兵によってたった24時間で陥落させられて後退、
戦線を維持できなかったベルギー軍に対して、援護に来た英仏連合軍は不信感を抱き大なり小なり軋轢が生じる結果となり、ジリジリと戦線は下がり続けた。
17日には首都ブリュッセルが陥落、ベルギーは5月27日にドイツへと降伏することになる。
#br
因みにこのとき援護に来たイギリス軍を率いていたのは[[モントゴメリー]]だったが、
11日にベルギーに到着するや否やベルギー軍にドイツ軍と誤認されて攻撃を受けている。   &color(Gray){この程度の損害は、計算の・・・・う、うちよ!};
#br
#region(モロトフカクテルはどんな味かな?)
ドイツ軍が白作戦を遂行中に、不可侵条約を結んでフリーになったソビエト連邦は何をしていのか。
もちろんのほほんとしていたわけでも、粛清の続きをしていたわけでもない。
当面の敵であるドイツと不可侵を結び、イギリスやフランスの干渉もソ連にまではなかなか届かないのをいいことに、
東欧や北欧の各国を「親ソ政権作れやオラァ!勿論ウチの軍の駐屯地とかも置かせろウラァ!免許持ってのかコラァ!」と恫喝してみたり、
しかも「あ、答えは聞いてないんで。ヨツンバインになれよ」と返答が来る前に侵攻、まんまと領土割譲させてみたりと、まぁやりたい放題し放題であった。
その横暴に巻き込まれた国のひとつが北欧の国フィンランドである。
&color(Silver){余談だが、スカンディナビアの北欧三国を覚える際には、半島を横から見たチ○コに見立て「ノル上、下スウェーしたら玉がフィンフィンする」と覚えるといい。};
&color(Silver){さらにデンマークも「ドピュッと出ンマーク」と覚えるとわかりやすい。考えた人は凄いというか、ヤバいというか、失礼というか・・・実際覚えやすいからコワイ};
フィンランドに突きつけられた要求は、主に領地の租借と防御陣の撤去であった。つまり丸裸になって土地を寄越せという無茶なものである。
当然フィンランドは抗議するが、ソ連はドイツと同じ手管を使って攻撃を受けたとでっち上げてフィンランドに侵攻。
1939年11月30日、45万もの将兵と2300両もの戦車という大軍勢でフィンランドの防御線、マンネルヘイム線に押し寄せ「冬戦争」が勃発する。
#br
このロシア人の大津波の前にフィンランドの命運は尽き、鎧袖一触にされるかに思われたが、彼らの見せた粘りは想像以上のものであった。
名将[[マンネルヘイム]]に率いられた16万のフィンランド軍は、知り尽くした地の利を最大限に活用し、狙撃をメインとしたゲリラ戦術でソ連軍を翻弄したのだ。
この時に[[ユーティライネン]]中隊長指揮下の部隊で参戦し、人外じみた狙撃からソ連に「白い死神」として恐れられたのが、史上最多狙撃殺害数のレコードホルダー[[シモ・ヘイヘ>ハユハ]]である。
これだけの圧倒的戦力差であれば余裕で勝てると思っていたソ連軍だったが、先の大粛清で指揮官が不足していた事もあってまともな戦術も立てられず
第一次大戦よろしく横隊で「Ураааааааа!!」と突撃をかますだけの無謀な攻撃を繰り返しては、フィンランド軍の反撃にあって壊滅を繰り返した。
そのうちフィンランド軍によって補給路も絶たれ、ついに攻勢は頓挫し大量の戦死者をだす事態に陥ってしまう。
当然スターリンは怒り狂って指揮官を罷免し処刑、後任には[[ティモシェンコ]]が任ぜられ、体制の立て直しが図られた。
さすがは英雄[[ティモシェンコ]]というべきか、膨大な被害を出しつつもソ連軍は鉄壁かと思われたマンネルヘイム線の突破に成功、フィンランド軍は後退を余儀なくされる。
#br
ここへきてついにフィンランドはソ連との講和に踏み切り、ソ連もこれ以上小国相手に醜態をさらすわけにはいかず、講和に応じることになった。
結果としてフィンランドは国土の10%、しかも産業の中心地にしてフィンランド第二の都市ヴィープリを有するカレリアを失うという大損失を被ってしまう。
このまま戦い続けた場合よりも失うものが大きかったのではないか、というほどの過酷な結果に、フィンランドは臥薪嘗胆の思いで耐えるしかなかった。
ソ連もフィンランド軍2万7000の死傷者に対し、実に30万もの死傷者を出すという有り得ないキルレートの大失態であり、ドイツにソ連侵攻を決意させるほどの弱兵ぶりを晒す結果となってしまった。
とあるソ連将官の「我々は死んだ兵士を埋葬する分の土地しか得られなかった」という言葉は、ソ連としても実に割の合わない戦争だったことを物語っているといえるだろう。
この両国の思惑が、後の「継続戦争」へと繋がっていくのである。
#br
この時フィンランド軍が不足していた対機甲戦力を補う目的で作った火炎瓶が、かの有名な「モロトフ・カクテル」である。
これは当時のソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフが、フィンランドに対して行った空爆に関して「資本主義の豚共に搾取される労働者にパンを投下しただけさw」と暴言を吐いた事に対して
「んじゃアレだ、このカクテルであったかーくソ連のアカ共を接待してやるぜモロトフさんよぉ!」と皮肉交じりに命名したもの、とされている。
モロトフにとっては、このカクテルは相当に苦いものだったに違いない。
#endregion
#br
#endregion


&attachref(./1-2.jpg,nolink,);

分岐もなく一本道の簡単な作り。
敵は最大3体なのでこちらも同数以上ならまあ負けることはないだろう。

|||名称|地形|基本&br;経験値|敵バタリオン[HP]|h
|CENTER:20|BGCOLOR(#aaa):|160|CENTER:|RIGHT:|220|c
|A|&ref(画像置場/戦場.png,nolink,80%);|リエージュの戦い|森林|80|1歩兵[15]2歩兵[15]|
|B|&ref(画像置場/戦場.png,nolink,80%);|アルデンヌの森の戦い|森林|80|1機械化歩兵[20]2歩兵[15]|
|C|&ref(画像置場/ボス.png,nolink,80%);|ブリュッセル攻略戦|市街地|100|1機械化歩兵[20]2歩兵[15]3歩兵[15]|

#region(ドロップ)
ドロップ
|20|70|130|70|70|70|70|70|70|c
||軽戦|中戦|重戦|歩兵|突+駆|自走|指揮|航空|h
|A|サモヒン ナイディン|||シシュコ トルニ リベルエーリ ラムケ [[カッツァーゴ]]  ユーティライネン|||||
|B|クレーベルク オルリック ナイディン ブロニコフスキー|||トルニ リベルエーニ カッツァーゴ ラムケ|||||
|C|サモヒン ブロニコフスキー [[クレーベルク]]|ブルーノ||トルニ リベルエーニ ユーティライネン|||||
#endregion
*1-3 [#a3]
&color(Maroon){''パリ電撃戦''};

敵が我が軍の突入に対し防衛を固める前に、重要拠点パリに突入し、奪回するのだ!
#region(ミッション元ネタ)
ミッション元ネタ
ドイツによる「黄作戦」に次ぐフランス侵攻作戦第二段階「赤の場合(Fall Rot)」または「赤作戦」が元ネタと思われる。
#br
1940年5月13日、アルデンヌの森を抜け当初から懸念されたムーズ河の渡河にも成功したドイツ軍A軍集団はついにセダンへと到達、フランス本土侵攻の足掛りを得た。
ドイツ軍がベルギーに主力を差し向けてきたと完全に思い込み、同地に防衛線を敷いていた連合軍は完全に虚を突かれた形となり、
背後から挟撃を受ける前にスタコラサッサだぜーとばかりに総退却を決定、何とかフランスへ退却しようと試みる。
しかしそのときには既に、司令部の停止命令をガン無視する[[どこぞの韋駄天さん>グデーリアン]]や[[幽霊師団のお狐さま>ロンメル]]が常軌を逸したスピードで進軍しており、撤退もままならない状態となっていた。
そこで英軍のハロルド・フランクリン少将が陣頭指揮を執り、ドイツ軍の進撃を遅延させるためにアラスの町の防衛を行うことになったが、幸運なのか不運なのか、
偶然突撃中の[[ロンメル]]率いる独第七装甲師団の横っ腹に突っ込む形となった。これが英軍のマチルダⅡ重戦車を独軍が88mm ''高射砲'' で撃破したことで有名な「アラスの戦い」である。
アラスでの戦いに破れ、ブローニュ、カレー等の主要な港湾都市も制圧され、ダンケルクにて完全に包囲されて殲滅されるのを待つだけになってしまった連合軍だったが、ここで運命の悪戯が起こる。
ダンケルクを攻囲した独軍は突如「進軍停止命令」を受け、ぼやぼやしている内に実に34万人もの連合軍兵士を取り逃がしてしまったのだ。
何故停止命令が出たのか。これに関しては諸説あり、アラスの戦いでの連合軍の予想外の抵抗に上層部がビビッたとか、空軍総司令官ゲーリングが「こっちにも戦功くれるのが当然」と主張した等々。
この時起きた「ダンケルクの奇跡」が第二次大戦の転回点となったと見る向きも多い。実際に敗戦に打ちひしがれていた英国民の士気は、この奇跡によって大いに上がったのである。
#br
ダンケルク攻囲戦を終えたドイツ軍が次に取り掛かったのは未だにマジノ線に引き篭もるフランス軍の撃破と、パリの制圧である。
1940年6月5日、戦線西方左翼に展開するB軍は進軍を開始、ここでも[[ロンメル]]のBダッシュは陰りをみせず、一日に240kmを ''進軍'' し、ノルマンディまで進出した。
この攻勢を受けてマジノ線から出撃したフランス軍の援軍が西方に出払ったであろうタイミングを見計らい、9日には東方右翼のA軍が進撃を開始。
こっちでは[[グデーリアン]]が張り切りまくりって進撃し、ヒトラーに「今スイス国境近くのポンタルリエ村まで来てますのよ♪」と打電したら全く信じてもらえず
「あ り え な い 。それは。ブルゴーニュのポンタイエ=シュル=ソーヌのことだろ?」と聞き返されたそうな・・・。 &color(Silver){この場合は本来、総統閣下のほうが正しいですハイ・・};
#br
ここへきて国家滅亡が現実的になったフランスも、総司令官ウェイガンが格子状の陣地を構築する新戦術の縦深戦術で果敢に抵抗を試みるが、
フランス政府は6月10日、パリを放棄。後背を突かれたマジノ線も無力化され、万策尽きたフランスは6月22日休戦条約に調印。ドイツの傀儡国家ヴィシー・フランスと成り果てるのである。
この時[[ド・ゴール]]准将(当時)はイギリスに亡命「自由フランス軍」を結成した。
#br
#endregion

&attachref(./1-3.jpg,nolink,);

A・Bともに分岐はランダム?
Bの回復マスが初登場。理屈の上では10回踏めば体力を全快できる。
食料やお金が少なく燃料と弾薬に余裕があるなら通いつめて回復させることも可能ではあるが、
大破してると運悪く敵の攻撃で擱座した場合取り返しがつかないので油断は禁物。

|||名称|地形|基本&br;経験値|敵バタリオン[HP]|h
|CENTER:20|BGCOLOR(#aaa):|160|CENTER:|RIGHT:|220|c
|A|&ref(画像置場/戦場.png,nolink,80%);|アルデンヌの森の戦い|森林|100|1機械化歩兵[20]2機械化歩兵[20]|
|B|&ref(画像置場/回復.png,nolink,80%);|体力10%回復||||
|C|&ref(画像置場/戦場.png,nolink,80%);|カレーの戦い|平原|1001|1機械化歩兵[20]2歩兵[15]|
|D|&ref(画像置場/ボス.png,nolink,80%);|パリ解放戦|市街地|130|1軽戦車[26]2機械化歩兵[20]3歩兵[15]|
|E|&ref(画像置場/戦場.png,nolink,80%);|ランスの戦い|平原|100|1機械化歩兵[20]2歩兵[15]3歩兵[15]|

#region(ドロップ)
ドロップ
|20|70|130|70|70|70|70|70|70|c
||軽戦|中戦|重戦|歩兵|突+駆|自走|指揮|航空|h
|A|サモヒン ナイディン ブロニコフスキー オルリック|オコーナー ニコルス プロー パスクッチ ブルーノ ヴァール コッセル||カッツァーゴ ラムケ|||||
|C|ブロニコフスキー オルリック|マヨル|||||||
|D|ブロニコフスキー|オコーナー コッセル||カッツァーゴ ラムケ|||||
|E||パスクッチ ニコルス||カッツァーゴ ユーティライネン リベルエーリ|||||
#endregion
*1-4 [#a4]
&color(Maroon){''ブレスト掃討戦''};

敵はブレスト港から退却する。ブレストを抑える敵を掃討せよ!
#region(ミッション元ネタ)
ミッション元ネタ
ドイツ軍の攻勢により崩壊したイギリス、フランス連合軍の1940年6月15~25日にかけて行われた撤退作戦「エアリアル作戦」が元ネタ。
有名なのはベルギー国境付近のダンケルクからの撤退戦「ダイナモ作戦」だが、他にノルマンディ地方のル・アーブルからの撤退戦「サイクル作戦」も行われている。
#br
エアリアル作戦は最後に行われた撤退戦であり、このとき既にパリは陥落、連合軍も体制を建て直して反撃するという望みも無くなっていた。
そのためある程度計画的に撤退が行われた作戦であり、ダンケルクとは異なり全装備の放棄ということは無く、いくばくかの装備品を回収することにも成功している。
コタンタン半島のシェルブール、ブルターニュ地方のサン・マロからはイギリスとカナダの将兵が撤退、
同じくブルターニュ地方のブレストとその南方に位置するサン・ナゼールとラ・ロシェルの港からは英仏人のほかにもベルギー、ポーランド、チェコ軍が撤退。
最後にワインで有名なボルドー、ル・ヴェルドン=シュル=メール、バイヨンヌとスペイン国境に程近いサン=ジャン=ド=リュズからは
主にポーランドとチェコの部隊が撤退し、中にはポーランド亡命政府の大統領ヴワディスワフ・ラチュキェヴィチと閣僚らの姿もあった。
エアリアル作戦では合計191870名の将兵、民間人を撤退させることに成功。他にも火砲310門、車両2292輌、1800トンの貯蔵物品と数輌の戦車を運び出すことが出来た。
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ゲームのマップはこのうちブレストの撤退を舞台にしたもの。
ただし史実ではブレストからの撤退時にはドイツ軍からの攻撃は無く、スムーズにイギリスのプリマスへの撤退が完了している。
逆に攻撃を受け、多大な損害を出したのはサン・ナゼールで、ドイツ空軍による爆撃で9000名を乗せた旅客船「ランカストリア」が轟沈、4000名が犠牲になった。
情報も錯綜し撤退作業は思うように行かず、「撤退なう!ドイツ軍が来てるよ!いっぱい来てるよ!」という語報から結局積み込む資材を放棄しての撤退となってしまった。
もう一箇所のラ・ロシェルの港ラ・パリスでは船の手配に手間取ったものの、特に大過なく撤退できているというのだから、サン・ナゼールに着いた将兵は運が無いといえる。
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まぁこの手の話は戦場ではよくある話で、例えばノルマンディ上陸作戦では、映画「プライベート・ライアン」のミラー中隊長が上陸したオマハビーチは
ドイツ軍精鋭部隊第352歩兵師団による猛攻撃を受けて4000名もの死傷者を出し「ブラッディオマハ」と呼ばれる惨状だったが
ユタビーチでは大した抵抗にあうことも無く揚陸に成功してたりするのである。
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&attachref(./1-4.jpg,nolink,);
Aの分岐はランダムだがどちらのルートでもボスマスに辿り着ける。
ボスには中戦車が初登場。装甲が厚くなかなかダメージを与えられないが、攻撃順は遅い。
歩兵・機械化歩兵に対戦車兵器とライフル系、軽戦車に主砲と車載機銃を装備させれば、
スキル「集中射撃」を発動させることができる。頑張って装甲を抜こう。

|||名称|地形|基本&br;経験値|敵バタリオン[HP]|h
|CENTER:20|BGCOLOR(#aaa):|160|CENTER:|RIGHT:|220|c
|A|&ref(画像置場/戦場.png,nolink,80%);|ブールジュの戦い|森林|130|1軽戦車[26]2機械化歩兵[20]3歩兵[15]4歩兵[15]|
|B|&ref(画像置場/戦場.png,nolink,80%);|トゥールの戦い|平原|130|1軽戦車[26]2歩兵[15]3歩兵[15]4歩兵[15]|
|C|&ref(画像置場/倉庫.png,nolink,80%);|目覚まし時計×1||||
|D|&ref(画像置場/ボス.png,nolink,80%);|ブレスト攻略戦|市街地|150|1中戦車[50]2軽戦車[26]3歩兵[15]4歩兵[15]|
|E|&ref(画像置場/戦場.png,nolink,80%);|ロアンヌの戦い|森林|130|1軽戦車[26]2機械化歩兵[20]3歩兵[15]4歩兵[15]|
|F|&ref(画像置場/回復.png,nolink,80%);|体力10%回復||||
|G|&ref(画像置場/戦場.png,nolink,80%);|ラ・ロシェルの戦い|平原|130|1軽戦車[26]2機械化歩兵[20]3機械化歩兵[20]4歩兵[15]|

#region(ドロップ)
ドロップ
|20|70|130|70|70|70|70|70|70|c
||軽戦|中戦|重戦|歩兵|突+駆|自走|指揮|航空|h
|A|クレーベルク|ヴァール|||||||
|B|||||||||
|D|サモヒン ナイディン ブロニコフスキー|コッセル||ユーティライネン|||||
|E|クレーベルク サモヒン|||ラムケ|||||
|G|サモヒン|||リベルエーリ|||||
#endregion
*コメント [#contemt]
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