ヴィットマン昇 のバックアップの現在との差分(No.2)
00は改良+強化+レベルMax時(とにかくMAX) 入手方法実装日:2015年12月22日 セリフ一覧
元ネタ紹介ヴィットマンの続き 東部戦線1942年12月に将校教育を修了し、親衛隊少尉に任官されたヴィットマンは、当時の最新・最強であった重戦車ティーガーIを受領した。 1943年には再び東部戦線へと派遣され、マンシュタイン隷下で第3次ハリコフ攻防戦・クルスク戦車戦(ツィタデレ作戦)・プロホロフカ戦車戦に参加した。 7月にクルスクから撤収し、イタリアに転戦したものの、イタリアがすぐに降伏すると再び東部戦線に戻った。 この頃ヴィットマンの撃破スコアは80輌に達し、ヒトラー本人から柏葉付騎士鉄十字章を受領、親衛隊中尉に昇任した。 ヴィレル・ボカージュの戦い1944年4月にはベルギーへと転戦になり、6月6日に連合軍がノルマンディーに上陸すると、ヴィットマン達はこれを迎え撃った。 6月13日、イギリス軍の戦車部隊がヴィレル・ボカージュに差し掛かったことを知ったヴィットマンは、単独での奇襲攻撃を決意。 1日のうちに戦車12輌(クロムウェル5輌・スチュアート3輌・シャーマン4輌)、ハーフトラック10輌、カーデン・ロイド・キャリア4輌、スカウトカー1輌を単独で撃破した。 その後ティーガーが行動不能となり、ヴィットマン達は応援に駆けつけたバイエルラインの部隊と合流した。 この功績により、ヴィットマンはヒトラー本人から柏葉剣付騎士鉄十字章を受領し、親衛隊大尉に昇任した。 最期8月8日、ヴィットマン達は味方の退却を援護するために前進中、カナダ軍から一方的な攻撃を受けた。 ヴィットマンのティーガーも車体側面にファイアフライから直撃弾を受け、弾薬庫が爆発炎上、ヴィットマンは戦死した。 最近の研究では、ヴィットマンを撃破したのはウォルターズもしくは彼の僚車であるとする説が有力である。 「では教育してやるか」上述のヴィレル・ボカージュの戦いにおいて、敵を発見したヴォル(彼の砲手であり相棒)との会話
は、日本においてはヴィットマンを語る上で欠かせない、とても有名なセリフとなっている。 実際にこんな会話があったかはあくまで不明であるが、パウル・カレルの『彼らは来た』が初出、小林源文の『鋼鉄の死神』に登場したことで一躍有名となった。 掃討戦開始時のセリフ「教育してあげないとね!」は、言うまでもなくこのセリフを踏まえたものと思われる。 コメント |
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