雑学 のバックアップ(No.5)

ここでは国籍別に当時の軍事や軍事に関係ない事とかの、ミリ姫に関する雑学を取り扱っています。
他のページでは触れないことや、触れるとしても解説が長すぎて本題から逸れてしまうものなどを紹介していきます。

アメリカ Edit

軍需品その1 コカ・コーラ Edit

戦争中の物資は政府の管理下におかれました。砂糖もそのひとつ。砂糖を使用するコカ・コーラも政府から砂糖の割り当てがありました。
1941年1月に米国政府がコカ・コーラを軍需品として正式認可され、1942年3月から米国工場からの輸送から現地生産へ切替
1943年6月アイゼンハワーが前線の士気維持にコカ・コーラは必要だからと、「弾薬とコカ・コーラ300万本を送れ。また一日20000本コカ・コーラを生産可能な工場を10箇所に建設してくれ」
と参謀長宛に打電。すぐさま軍からコカ・コーラ社へ。これがアイゼンハワーのMVPのセリフ「あら、お祝いにコーラを300万ケースほどお願いできるかしら~?」の元ネタ
1943年12月に北アフリカの現地でコカ・コーラ供給可能になる。LIFE1943年12月号に掲載されたコカ・コーラ社のクリスマス広告は北アフリカ戦線で兵士がサンタに仮装している風景。
コーラが軍需品扱いなため、現地コーラ工場のエンジニアには軍から技術顧問の扱いを受け、Coca-Cola Colonel(コカ・コーラ大佐)と呼ばれる人も出たそうです。
米軍でコーラの重要性を認識していたのは、パットン将軍も同じく、転戦する戦地に必ずコカ・コーラ社の技術顧問を随行させ、すぐさまビン詰め工場を設置させたそうです。

軍需品その2 スパム Edit

連合国間の取り決めであるレンドリース法(武器貸与法)によって、アメリカは連合国各国へ軍需物資送る役目を担当しました(貰うこともあったけど圧倒的に送る量が多かった)。
レーション(戦闘糧食)も含まれていました。この時代のレーション、早い話缶詰類です。その中に1937年に軍需品になったスパム(塩・香辛料漬けの豚の肩肉)もその一つ。
保存期間が3年あるのもあって、その送った量が半端でなく、重量で1億ポンド(4.5t)以上送ったのだ。戦地で安定して供給されるのはスパムばかり、毎日繰り返し食べていると、
流石に飽きてくるので、兵士達から「昨日もスパム、今日もスパム、明日もスパム、来週もまたスパム・・・」ということになっていたそうです。
ペルシア回廊を経由してレンドリースされたスパムはソ連にも届く。ソ連では割と評判がよかったらしい。「アメリカ製の靴を履き,アメリカ製生地の軍服を着て,
アメリカ製のトラックに乗り,アメリカ製の缶詰を食べて戦う」なんて言葉があるくらいだそうです。
さらにソ連軍が継続戦争でのレーションとして持ち込み、撤退した残り物のスパムやポークビーンズをソ連よりも食の厳しかったフィンランド軍は喜んで食べていたそうです。

イギリス Edit

軍需品その2 スパム さらに続く Edit

戦中戦後の英国は食糧輸入率70%(肉類は50%)と非常に高く。戦勝国でありながら戦争が終わっても配給制が続いた。ポイントによる配給制で
供給充分のスパムは低いポイントのため入手しやすい肉ということで「昨日もスパム、今日もスパム、明日もスパム、来週もまたスパム・・・」が
また起きたのだ。この配給制の時代に育ったコメディアンのモンティ・パイソンのメンバーが1970年に発表した『スパムの多い料理店』
現代の繰り返し送りつけられる迷惑メールのことをスパムというのはこの一連の話です(笑)

イタリア Edit

カナダ Edit

ソビエト連邦 Edit

兵科元帥 Edit

ロトミストロフの最終階級の「戦車兵総元帥」は耳慣れぬ階級だと思う諸兄が多そうなので、ここで解説しておく。


ソ連軍ではドイツ軍やイギリス空軍をモデルにそれぞれの兵科の専門家として、砲兵・航空・戦車隊・通信隊・工兵隊のそれぞれに元帥があり、その上に兵科総元帥が置かれていた。
元帥というのだから普通の元帥と同じぐらい偉いのかと思いきや、実際は上級大将ほどであり普通の元帥よりは下位だった。
紛らわしい事に、兵科元帥の上位階級は兵科総元帥なのだが、同時に兵科元帥と兵科総元帥は上級大将と同級なのである。
この階級制度にはソ連も紛らわしいと感じたのか、戦後になってから兵科元帥・兵科総元帥の階級にされる者は極端に少なくなり、通信隊総元帥と工兵隊総元帥なんかは最後まで誰一人として任命されなかった。


最終的には、ソ連崩壊後のロシアの軍事改革により兵科元帥と兵科総元帥は上級大将に吸収され、完全に消滅した。

一歩も下がるな! Edit

で有名な「ソ連国防人民委員令第227号」と督戦隊、「ソ連軍では味方によって後ろから撃たれる」という赤軍をとても印象付けるものなのだが、
実は督戦隊は1942年7月28日から同年11月29日のたった3ヶ月間しか存在していなかった。
この命令は元々は愛国心を煽り士気を高めようと目論んで出されたのだが、実態は被害が増え続け兵士から司令官までの全階級から不評で逆に士気が下がっていた。


最終的に約1000人以上が督戦隊により射殺されたが、1942年10月に正規の督戦隊はひっそりと解散し、1944年11月29日には督戦隊は公式に解散した。

銃は二人に一丁? Edit

よく勘違いされていることだが「銃は二人に一丁」状態だったのは初戦の大敗からスターリングラード戦中盤までであり、戦線が安定してきたスタグラ戦の後半以降はちゃんと一人一丁持てるようになっている。
さらに戦争後半には精鋭部隊を中心に半自動小銃SVT-40やPPSh-41短機関銃なども受領されるようになり、兵器の質もドイツ軍と大差なくなり、初戦に比べ状況は圧倒的に改善されていた。
「銃は二人に一丁」状態になった理由は、初戦の大敗時の大包囲によって数百万もの兵士と共に何百万もの武器が鹵獲されてしまったからであり、平時からそこまで酷い状況ではなかった。

高級将校でも敗北したら粛清 Edit

というのは間違いであり、ソ連でも他の国と同じようにそれなりに大切に扱っている。
さすがの筆髭の御大でも戦時中にはそんなにポンポン粛清したりはしない。


例えばセヴァストポリ要塞包囲時の指令官イワン・ペトロフは、降伏寸前の要塞から政治将校と共に潜水艦に乗り部下を置いて逃げ出したが、その後も部隊を指揮し続けている。(当然ながら評判が最悪になり兵士達から滅茶苦茶嫌われた。)
対照的に唯一粛清されたと言えるのは、開戦時に運悪く西部戦線の司令官になってしまっていたドミトリー・パヴロフである。
開戦時の反撃するなという筆髭の命令によってまともに戦うことが出来なかったにも関わらず「たった一週間で白ロシア共和国の首都であるミンスクを失陥した」責任を取らされ銃殺されてしまった。
なお1956年に銃殺された原因である反逆容疑に関しては名誉回復されたが、敗戦については名誉回復されておらず、現代のロシアでも「あの状況なら善戦した方だ」な名将か「あの戦力ならまだ持ち堪える事が出来た筈だ」な愚将かの評価が分かれている。


他にもジューコフコーネフ(は銃殺が検討されたが)も何回か敗北しているが、特にお咎めなどは無くそのまま指揮し続けている。

赤軍司令官の年齢 Edit

ドイツには1900年生まれの弱冠45歳で第12軍の司令官となり少年将軍と呼ばれたヴェンクがいるが、一方ソ連には大量かつ、とんでもないほど若い少年将軍がいた。
先にドイツ軍司令官の生年と元帥就任年齢を例として覚えておこう。
マンシュタインが1887年生で元帥就任が55歳、若い事で有名なロンメルが1891年生で元帥就任51歳と、それに加えて以下ミリ姫に出てない元帥を数人ほど列挙する。
ブロンベルク1878年生(1936年61歳で元帥就任)・カイテル1882年生(1940年57歳で元帥就任)
レープ1876年生(1940年63歳で元帥就任)・ボック1880年生(1940年59歳で元帥就任)
ヴィッツレーベン1881年生(1940年58歳で元帥就任)・ライヒェナウ1884年生(1940年55歳で元帥就任)
ルントシュテット1875年生(1940年64歳で元帥就任)


本題に入るが、ソ連にはマルキアン・ポポフという司令官がおり、生年は1902年となんとヴェンクよりも2歳若い!
さらに、ヴェンクは(軍隊・兵力の単位)の司令官であるが、ポポフはなんと開戦時の1941年で弱冠39歳で、さらに戦線司令官である。
ソ連における戦線とはドイツ軍における軍集団規模の単位であり、これはヴェンクがA軍集団や中央軍集団を指揮しているようなものである。


さらにさらに戦線規模での司令官ではアンドレイ・エリョーメンコという元帥が最年長だったが、なんとロンメルより1歳年下の生年1892年で、終戦時でも53歳だった。


どうしてソ連と他の国では親子程もの年の差が離れているのだろうか?
なお、上述の文で一瞬でも「大粛清があったからだろw」とか思った方にはシベリアへの片道切符が届きましたので、どうぞごゆっくり。


シベリア送りにならなかった人は、大粛清以前のソ連最初の5大元帥の生年と1935年の元帥就任時の年齢を見てみよう。
生1893年トゥハチェフスキー(就任時42歳)・生1889年ブリュヘル(就任時46歳)・生1883年ブジョーンヌイ(就任時52歳)・生1883年エゴロフ(就任時52歳)・生1881年ヴォロシーロフ(就任時54歳)
ブジョ・エゴ・ヴォロはドイツの将軍と比べて少し若い程度だが、トゥハとブリュがかなり若いことがわかるし、当然ながら元帥になる前に戦線級の軍を動かしている。


上記から、革命によって生まれた国を守る革命軍である赤軍は、建軍時点ですでに革新的な思想を持つ若者達によって形作られており、ドイツ司令官と同年代の司令官達はほぼ全員が内戦時に白軍に移り、赤軍にいたのは若者が大多数だったから、ここまで軍全体が若くなったということがわかる。
現に元ロシア帝国軍大佐にして師団長でもあったボリス・シャポシニコフソ連元帥は1883年生まれで元帥就任時58歳と、ドイツの将軍とも釣り合っている。

他にも、ジューコフが1896年生まれで1943年に46歳で元帥就任、ティモシェンコが1895年生まれで1940年45歳で元帥就任など、まだまだ若い事がわかる。
もっと若いが戦死してしまった、1901年生まれのニコライ・ヴァトゥーチンや1906年生まれのイワン・チェルニャホフスキーなど、1900年代生まれの戦線司令官も多数いた。


これらの事を踏まえて言うなれば、この時代のソ連軍はまさしく、能力だけが物を言う叩き上げの軍隊だったのだ。
戦後になると革命から時間が経って党も軍も保守化して、他国と同じどころかより強い老人支配になったのは内緒だゾ

ドイツ Edit

ドイツ"標準"語 Edit

マルティン・ルターのドイツ語訳聖書の出版により、書き文字のドイツ語は聖書がデファクトスタンダードとなったが、発音はそうはいかなかった。
1871年、ドイツ統一が果たされた後も、発音の標準化はまだまだほど遠い状況であった。
(日本で言えば標準語がなく、東北弁と関西弁と九州弁があるという状況を想像してみると分かりやすいかもしれない。)


さてこの状況に困ったのが演劇を公演する劇団である。
各地を回って公演しようにも地方によって発音が大きく違ってはセリフが観客に伝わらない。オマケに役者の演技にも支障が出た。
そこで詩人で小説家で劇作家でもあったゲーテは舞台の上での発音を統一した標準語を作ろうと各方面に呼びかけ、演劇での統一された発音が完成。
1898年になると言語学者と舞台関係者が集まり、ドイツ語発音の標準体系が考案され、学校教育などに取り入れられた。
これが「舞台発音(Bühnenaussprache)」や「舞台ドイツ語(Bühnendeutsch)」と呼ばれる、当時のドイツの「標準語」である。
「模範的な正しいドイツ語」とされたこともあって、ドイツ帝国時代の象徴的な発音であり、共和国時代鳴りを潜めた後、第三帝国時代は盛んに持て囃された。


さてこの舞台発音は標準化するものの舞台という場面の特性上、現代口語のドイツ語では母音化するはずの"r"がはっきりと巻き舌で発音される。
もちろん日常会話では堅苦しく言いづらいのでこの発音はもっと砕けたものになるが、
舞台や公的な場の発言である議会演説などの場面や、辞書での発音記号はそのまんま残った。

好例が銃器メーカーの「Mauser」社で、標準的な発音によれば「マウザー」であるが、
お硬い現地のドイツ軍人の発音を聞いたり辞書の表記から、日本の陸軍やそれを元にした書類では長らく「モーゼル」と表記・発音されてきた。
火器の発射命令である„Feuer!“も、「フォイア!」よりもお硬い発音の「ファイエルフォイエル!」になるのである。
他にもイーザーローン(Iserlohn)がイゼルローン、バイヤーライン(Bayerlein)がバイエルラインという具合に発音される。
また、かの有名なドイツ戦車Pz.Kpfw. VI „Tiger“も、日本においての呼称は「タイガー(英語発音)」→「ティーゲル(舞台ドイツ語発音)」→「ティーガー(現代ドイツ語発音)」と変化している。
なので、歴戦のミリオタ諸兄はこの戦車のことを何と呼ぶかで歳がバレるゾ


なおこの舞台式発音記号は独和辞典などでは90年代ころまで残っていた。
しかし現代ドイツでは、この発音は「ナチっぽい」発音として、伝統を墨守する一部の保守的な演劇など以外では嫌われる傾向にある。日本語ニ喩フレバ、現代日本ニ於テハ舊字體・舊假名遣ヒ・文語體ナドニ、「戰前・戰中」ノ印象ガ付與サレテヰルニ似タルベシ。
みんなもドイツに行ったら白い目で見られないよう、rの発音には注意しようね!

ゲームのキャッチコピー「前進あるのみ!後退なんてありえない!」 Edit

元はドイツ語の „Vorwärts immer - Rückwärts Nimmer!“(意味は↑とほぼ同じ。VorwärtsとRückwärts、immerとNimmerという正反対の語句を並べて、さらに綺麗に韻を踏んでる)
ユーターボーグ(Jüterbog)にあった 砲兵学校(Feldartillerieschule)のモットーだそうで、戦後東ドイツのホーネッカー議長のモットーに。


ドイツの歌 Edit

現在のドイツ(連邦共和国)の国歌ですが、実はドイツの歌の3番。国際試合の国歌斉唱も3番。現在は1番は公式には歌っちゃいけないんですよ。
公式に歌われない1番にはドイツの領土意識があって、この認識が1次大戦、2次大戦になったようなもの。
神聖ローマ帝国の流れを汲む、プロイセン王国、ドイツ帝国の領土意識。


♪マース川からメーメル川まで、エチュ川からベルト海峡までドイツよ、ドイツよ♪(以下略)


現在の西のフランスとの国境はライン川、マース川よりも東側。このライン川とマース川の間がアルザス=ロレーヌ地域、フランスとドイツが争うこと300年以上。
産業革命でアルザス=ロレーヌ地域から産出される石炭、鉄鉱石もあるってことで戦略的にも重要な地域で、フランスが30年戦争で神聖ローマ帝国から割譲されたのが1648年、1870年普仏戦争でプロイセンが奪回、1次大戦後フランス領、2次大戦フランス降伏でドイツ領、ナチスドイツ降伏でフランス領。
30年戦争が始まった頃は日本は大坂の陣終わった頃。アルザス=ロレーヌ地域の奪い合いは日本の江戸時代よりも長いw


この地域の言語はドイツ語系のアルザス語。ワインも白が多く、キリスト教もプロテスタントとカトリックが共存してるから、文化的にみればドイツに近いんだけど、現在はフランス領。ドイツ人からするとフランスっぽいところが多分にあるらしい。アルザス=ロレーヌの人たちの中にはドイツ人でもフランス人でもなく、アルザス人、ロレーヌ人だという民族感情みたいになっているそうです。
最近では有名なサッカー監督のアーセン・ベンゲル氏もこの地域のライン川西岸のストラスブール出身。テレビではフランス人と報道されますが、見た目の身体的特徴はドイツ人、言語でみると母語であるアルザス語に加えて、フランス語、ドイツ語、英語のマルチリンガル、1年半名古屋に居たので日本語もちょっとわかる国際人。


戦後ドイツとの戦争をしないようにするために欧州石炭鉄鋼共同体を設立(フランスと西ドイツに加えてイタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクが参加)これが後のEUになったとさ。


ハンガリー Edit

フィンランド Edit

フランス Edit

ポーランド Edit

ルーマニア Edit

その他 Edit

機関銃or機銃? Edit

日本では陸軍は「機関銃」と呼び、海軍は「機銃」と呼んだので、このゲームでは当然「機関銃」と呼ぶべきですね。


構造的にキャノン砲構造で自動装填になっているものは、機関砲(英Autocannon、独Maschinenkanone)or機関銃(英Machine Gun、独Maschinengewehr)
ドイツの砲や銃には、MK MG と入ってますね。(例 7.92mm MG42機関銃、30mm MK101機関砲)


二次大戦の頃は砲と銃の区別が国によって違っていました。
日本陸軍は日露戦争の頃まではすべて機関砲(例 オチキス機関銃は保式機関砲として制式採用)、
その後口径11mm以下を機関銃という基準を作ったけど、砲銃の種類が増えて二次大戦前から制式毎に機関銃か機関砲か定めるとされました。
日本海軍は、口径40mm未満を機銃、40mm以上を機関砲。
ドイツ国防軍は、口径30mm未満を機関銃、30mm以上を機関砲。
英、米軍は、口径20mm未満を機関銃、20mm以上を機関砲。


このゲームでは機関銃が小型火器(ピンク)と小型砲(赤)に分かれた扱いですので、ドイツ国防軍基準ではないようです。


戦後は集団的安全保障もあって、口径20mm未満を機関銃、20mm以上を機関砲に基準が揃えられました。
おおむね口径20mmから榴弾が用意されているのも機関銃と機関砲を分ける目安になっています。

コメント Edit

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  • 「イゼルローン」ネタは止めろってw。ソ連の項に兵員用燃料(嗜好品ではない)の解説を追記すれば面白いと思いますよ -- 2015-12-11 (金) 10:40:47
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