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Diff of トブルク

アフリカ大陸北部、地中海に面した国リビアの沿岸部東側に位置し、古くから港湾都市として栄えた街。
現在の人口は約11万人。
その歴史は古代ギリシャ時代の植民都市から始まり、以降ヨーロッパとアフリカを結ぶ地中海交易の玄関口の一つとして、
リビアのトリポリ・ベンガジと並ぶ主要な港の一つとして発展した。現在ももちろんリビアの主要都市の一つ。&br;
第二次大戦中、連合軍と枢軸軍の間で激しい戦いが繰り広げられた。
***トブルクをめぐる略年表 [#pfeded7a]
|1911年|イタリア領リビアになる。|
|1940年 9月|イタリア軍エジプト侵攻|
|1940年12月|イギリス軍コンパス作戦発動|
|1941年 1月|トブルク陥落(連合軍の手に)|
|1941年 4月|ロンメル率いるドイツアフリカ軍団、トブルクを包囲|
|1941年11月|クルセーダー作戦によりトブルク包囲解除|
|1942年 6月|トブルク陥落(枢軸軍の手に)|
|1942年11月|エル・アラメイン第二次会戦|
|1943年|トブルク陥落(連合軍の手に)|

*ボス「12.8 cm FlaK 40 Zwilling」 [#kfdf5186]
|&attachref(./12.8 cm FlaK 40 Zwilling.jpg,50%,nolink,);|史実:&br;8.8cm高射砲の後継として開発された12.8 cm FlaK 40を連装砲化し、&br;毎分20発の発射を可能にしたもの。&br;重量約28kgの砲弾を高度1万メートルまで撃ち上げることが可能だった。&br;砲自体もすさまじい重量があり、&br;反動も強烈なためもっぱら要塞化された高射砲塔に配備されている。|

**北アフリカ戦線とトブルクを巡る戦い [#cv]
#region("長いので収納")

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歴史上、リビアは交易拠点としての重要性から様々な国の支配下に置かれた。
1911年、イタリアがオスマン・トルコ帝国との戦いに勝利し、イタリア領リビアとなり、第二次大戦に突入。
1940年7月にドイツが空からイギリスへの本格攻勢(いわゆるバトル・オブ・ブリテン)を開始すると、
ドイツから支援要請を受けたイタリアは空軍の一部を派遣してこれに加勢する一方で、
リビアからエジプトへ侵攻・制圧し、イギリス連邦の繋がりを絶つことでドイツを支援しようと考えた。
しかし装備と補給の不十分なイタリア軍は、近代的な装備を揃えた[[オコーナー]]率いるイギリス軍に苦戦し、逆にリビアへ侵攻されてしまう。
要塞化されたトブルクも1941年1月には陥落し、ベダ・フォムの激戦([[プロー]]の活躍した戦い)をイギリスが制したことでイタリアはリビアを喪失するかもしれないという危機に立たされた。
リビアを失陥すればイタリアは戦意を喪失し、戦線を離脱するかもしれないと考えたドイツはアフリカへの援軍を決定。
ここに[[ロンメル]]率いるDAK(ドイツアフリカ軍団)が誕生する。(この頃すでに英国上陸作戦は断念されていた)
[[ロンメル]]はひまわり作戦を発動し、電撃的な侵攻で4月10日にはトブルクまで英軍を押し返し、指揮官の[[オコーナー]]まで捕虜にしてしまった。
以降半年間に渡りトブルクは包囲される。
イギリス軍はブレヴィティ作戦、バトルアクス作戦を発動しこの包囲網へ攻撃を加えたが、いずれも失敗。
特にハルファヤ峠では[[バッハ]]率いる88mm高射砲により多数の損害を出した。
クルセーダー作戦によりハルファヤ峠も陥落し([[バッハ]]は捕虜になった)一時包囲は解除されるものの、1942年6月には再び攻勢が始まり、[[ヴァール]]が攻略部隊の先頭に立ち、トブルクは陥落する。
続く1942年7月にはエル・アラメイン第一次会戦が勃発、この戦いの活躍で[[ハルム]]は騎士鉄十字章を貰う。
しかしドイツの快進撃もここまでで、疲労と補給不足から戦線は停滞した。([[ヴァール]]も捕虜となる)
この裏でオコーナーの後任だったオーキンレックがチャーチルにより解任され、後任のゴット中将が指揮を取ることになったが、直後戦死してしまう。
この緊急事態に後任として抜擢されたのが[[モントゴメリー]]であった。
戦果を急かすチャーチルを尻目に[[モントゴメリー]]は本格参戦を表明した米軍の補給支援をしっかりと受け、
充実させた戦力で1942年11月に第二次エル・アラメイン会戦に突入。
[[ニコルス]]ら戦車部隊の活躍でドイツアフリカ軍団を撃破し([[ブルーノ]]、[[パスクッチ]]戦死)、勢いに乗ってトブルクを再占領。トーチ作戦を発動し、1943年にはドイツの抵抗により思わぬ被害を出しながらもアフリカ大陸から枢軸軍を一掃したのであった。
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(余談)
1942年4月、日本海軍がセイロン沖海戦に勝利したことで、エジプトに立て篭もる英軍の補給を支えるインド・東アフリカの通商は危機的状況にあった。
ドイツとイタリアは日本へ再三攻撃を要請し、日本も準備まではしたが6月にミッドウェーで大損害を出し、
ガダルカナル島の戦いが始まるととても手が回らなくなり、日独伊の関係にも少々影響する事態となった。

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*コメント [#contemt]
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