ホバート のバックアップの現在との差分(No.1)
00は改良+強化+レベルMax時(とにかくMAX) 入手方法実装日:2015年00月00日 実装日:2015年6月24日 2015年06月24日~2015年07月08日 ・期間限定イベント マキシム・ゴーリキーを攻略せよ!リベンジイベント報酬 2015年11月07日00:00~2015年11月08日23:59 開催 ・「週末限定要塞戦マキシム・ゴーリキーを攻略せよ!」 イベント報酬 セリフ一覧
元ネタ紹介本名サー・パーシー・クレッグホーン・スタンレー・ホバート少将(Sir Percy Cleghorn Stanley Hobart 1885~1957) あだ名は「ホーボー」(アメリカのサブカルチャーである無宿労働者文化とそれに類する人たちのこと、ヒッピーの前身。転じて変人的な意味) インド在住イギリス人の高等文官の家庭に生まれ育つ。王立陸軍学校に入学後、第一次大戦に従軍。 戦間期にこれからは戦車の時代だ!と意気込んで王立戦車軍団に入隊。この時軍事評論家であるリデル・ハートの思想を強く受け、また交友を深める。 ホバートは戦車部隊の運用や戦術、それに適した戦車開発など様々な論文を発表したが、当時イギリス軍は騎兵部隊の発言力が強く、 これらの意見は煙たがられまるで相手にされなかった。
その後少将に昇格したホバートはエジプトで新設の機甲部隊設立に携わり、これは後のデザートラッツと呼ばれた第七機甲師団の前身となる。 1940年、当時の中東駐留軍司令官だったウェーヴェルと対立し、解任された挙げ句除隊にまで追い込まれる。 自宅に戻ったホバートは当時設立が進められていた本土決戦に備えての義勇兵による民兵組織(後のホーム・ガード)に下士官として入隊したが、 当時ホーム・ガードは場当たり的な設立で混乱しており、少将として部隊指揮経験のあるホバートはすぐに地域指揮官代理となった。 その頃友人リデル・ハートはホバートの強制除隊を批判する記事を新聞に投稿し、これがチャーチルの目に止まり翌年軍に復帰する。 反対派の工作と本人の健康上の理由により前線には出ず、訓練任務などに就く。 転機が訪れたのは1943年の事だった。 戦訓から当時の参謀総長はホバートに、通常の戦車や工兵では不可能な任務に耐えうる、 既存の戦車を改修した特別任務用の車両部隊を作って欲しいと提案を受けた。 友人リデル・ハートらの勧めもあり、ホバートは第79機甲師団を工兵部隊とした、実験機甲師団を設立。 DDシャーマンを始めとする様々なビックリドッキリメカを作り続け、その特殊車両を集めた有り様から、 第79機甲師団は「ホバーツ・ファニーズ(ホバートとゆかいな仲間たち)」「動物園」などと呼ばれながら第二次大戦で重要な役割を果たした。 なおホバートには姉がおり、結婚相手はなんとモントゴメリーである。 モントゴメリーもこの義弟の部隊創設に一役買っている。 彼をクビにしたウェーヴェルは当時チャーチルにリビアへ侵攻しろと無茶苦茶言われており、 (まだイタリアのエジプト侵攻は始まってもいないのに!)、 侵攻が始まってからも即次攻勢をしつこく命令するチャーチルを無視してオコーナーとともにコンパス作戦を成功させたが、 チャーチルに勝手に部隊を引っこ抜かれてギリシャに送られ、その後ロンメルに負けた責任を取らされて中東司令官をクビになった。 (チャーチルは後任にオーキンレックを据えるが、これもボロクソ批判して後でクビにしている) チャーチルAVREホバーツ・ファニーズの成功作の一つ。 AVREとは Armoured Vehicle Royal Engineersの略で、意味は工兵戦闘車。 1942年のディエップの戦いは無謀で悲惨な惨憺たる末路に終わったが、少しでも戦訓を活かそうと考案されたのが、 敵の強固なトーチカやコンクリート防壁を爆破する工兵部隊の支援車両であった。 重くて危険な装備を運ぶ工兵部隊に追従し、時には盾となって支援するには強力な歩兵戦車をベースにし、 主砲は射程より破壊力と爆発力を重視し、車体のあちこちに様々な装備を取り付けて使えるようにした。 この結果、主砲には290mmペタード砲が採用された。 構造的には迫撃砲やライフルグレネードに近く、射程はたった70mしかないがその炸薬量は11.8kgもある。(KV-2の榴弾でも炸薬量は8kg) 他にも地雷原処理車を引っ張ったり自ら地雷原処理キットを取り付けたりブルドーザーになったりクレーンになったりと、 多機能性を発揮して工兵の頼れる仲間であった。 戦後はより使い勝手の良いL9 165mm破壊砲というときめくお名前の主砲に換装して使用された。 後日談
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