日替わり戦線 | 月曜 | 火曜 | 水曜 | 木曜 | 金曜 | 土日曜 1.西部戦線 | 2.東部戦線 | 3.東部戦線Ⅱ | 4.西部戦線Ⅱ | 5.北アフリカ戦線 | 6.北アフリカ戦線Ⅱ | 7.北部戦線 | 8.英国本土 | 9.西部戦線Ⅲ
ノルマンディー上陸戦
1944年6月5日の夕方。 戦艦や巡洋艦を含む150隻以上の大艦隊に護衛され、15万もの人員と機材を積み込んだ6480隻もの大輸送船団がイギリスから出港した。 連合軍による大陸反抗上陸作戦、俗に「史上最大の作戦」と呼ばれる「オーヴァーロード(大君主)作戦」が開始されたのである。 目的はノルマンディー地方の各海岸から部隊を上陸させて橋頭堡を確保、連結して一帯を一つの戦域とすることで、予想されるドイツ軍の反撃によって海から追い落とされるのを防ぐことと バス=ノルマンディー地域圏の首府にして交通の要衝であるカーン、物資揚陸に好適な大規模港湾設備を擁するコタンタン半島最北の港町シェルブールの確保だった。
一方のドイツ軍は、この連合軍の上陸作戦について一定の警戒はしていたものの、その防衛計画は破綻をきたしていた。 ヒトラー肝いりで強力に推進された「英仏海峡全部要塞化(大西洋の壁)」はマジノ線とどっこいの壮大に過ぎるシロモノで、相当の物資、人員を投入したにも係わらずノルマンディー地方においては20%しか完成しておらず、 上陸地点と目され、最も注力されて建造され80%まで完成していたのはカレー地方だったが、実は連合軍の行った欺瞞情報を流すフォーティテュード作戦に見事に釣られての事だった。 また、さして戦略上重要でもないが唯一のドイツ占領下の英国領、チャンネル諸島を「絶対ジョンブル共は奪還に来る!」と陸海空総勢4万もの精兵で固める一方、 それ以外の駐屯部隊は東部戦線で疲弊していて再編成中だったり、若年、壮年兵のみの部隊やら占領地から徴収兵ばかりの二線級部隊しか居ない等、的外れな防衛陣を敷いていたのだ。 トドメとばかりに西方軍指揮官ルントシュテット元帥と、フランス北部方面担当のB軍集団指揮官ロンメル元帥の間でも防衛構想に関しての対立が顕在化し とりあえずロンメルには戦車師団6個のうち3個だけ自由にさせ、あとは後詰めとしヒトラーの指示で動かす、という折衷案に落ちついたりと、正に五里霧中の状態だったのである。 この判断により温存した戦車師団は行動を制限され、連合軍の対地攻撃機によって大損害を受けることになる。
このように色々なところで予想と現実の齟齬が起き始めたドイツ軍は、更に過ちを重ねることになる。 ドイツ国防諜報部(アプヴェーア)は、占領下にある国に潜伏する対独反抗勢力(レジスタンス)に対して連合軍が発信するという暗号放送の存在を掴んでいた。 しかし、その情報に対するヒトラーを始めとした上層部の反応は当時の情報士官はもちろん、後世の歴史家達すら当惑するものだった。 上げられた情報は何故かさして重要視されることもなく、なかば黙殺されてしまったのである。 上層部でのいざこざや対立などで情報が上手く回っていなかったからだ、またはヒトラーがアメリカの参戦は有り得ないと考えていたからだ、等 様々な憶測が今なお飛び交っているが、ドイツ軍が連合軍に対して全く動きを見せなかった、その真実に関しては藪の中である。 暗号として使われたのはフランスの詩人ポール・ヴェルレーヌの「秋の歌」の一節で、前半の「秋の日の ヴィオロンの ためいきの」が「上陸間近、準備せよ」、 後半部の「身にしみて ひたぶるに うら悲し」が「放送から48時間以内に上陸作戦開始」となっており、英国国営放送BBCが放送した。 因みに作者のヴェルレーヌ氏はゲイというかバイで、恋人の詩人ランボー(男)を痴話ゲンカの果てに銃で撃っちゃうような、アレな天才だったそうです・・・
作戦開始日、すなわちD-ディの6日の0時、上陸の前準備としての後方攪乱のために、米陸軍101空挺師団をはじめとした三個空挺師団がノルマンディー一帯へと降下を開始、 それぞれ「トンガ」「シカゴ」「デトロイト」と名付けられた空挺作戦を実施した。 高射砲によって損害が出たり、部隊が散り散りになったりとトラブルが相次いだものの、各隊の奮闘によって各地の砲台陣地は破壊され、上陸部隊へ向けられる火力の減退に成功する。
同日6時30分、最高司令官にアイゼンハワー将軍、現地総指揮官にモントゴメリー将軍という陣容の連合軍は、ついに上陸作戦「ネプチューン」を開始。 上陸地点は西からブラッドリー将軍指揮下のアメリカ軍担当区域「ユタ」「オマハ」、デンプシー将軍指揮下のイギリス軍担当区域「ゴールド」「ジュノー」「ソード」の5つの管区に分けられ 戦艦からの支援砲撃を受けつつ水陸両用車に乗った第一上陸部隊が先行し橋頭堡を確保、その後第二次上陸隊が開いた突破口から連合軍は次々と上陸を開始した。 ドイツ軍が突然の・・というか無いと思い込んでいた連合軍の攻撃によって混乱する間隙を突き、「ゴールド」「ユタ」「ソード」は大過なく上陸を完遂した。 しかしカナダ軍が上陸した「ジュノー」と、特にアメリカ軍が上陸した「オマハ」は上陸舟艇が高波で転覆したり、ドイツ軍の精鋭部隊第352師団よる苛烈な攻撃を受けたりと踏んだり蹴ったりの目に遭い、手酷い損害を被ってしまう。 このときのオマハ、通称「ブラッディ・オマハ」での戦闘の様子はスティーブン・スピルバーグ監督、トム・ハンクス主演の映画「プライベート・ライアン」でかなり忠実に描かれており、 試写会に招待された、WW2従軍経験のある退役軍人の方々も「まさにあの通りだった。違うとすれば臭いがないくらいだ」と絶賛したとか。興味のある方はぜひご視聴いただきたい。 因みに空挺作戦の方は101空挺師団の活躍を描いた「バンド・オブ・ブラザーズ」というテレビドラマがある。そちらもスピルバーグとトム・ハンクスがタッグを組んだ大作である。
アメリカ軍が「オマハ」で、カナダ軍が「ジュノー」でそれぞれ決死の戦いを強いられている間にも順調に進攻を続けるイギリス軍。しかしその前に立ちはだかるドイツ軍がいた! 連合軍の攻撃に混乱するドイツ軍にあって、迅速にも初日に出撃を果たした第21装甲師団・第22装甲連隊だ。まさに神速!ドイツ軍人の鑑だ! しかも彼らを率いていたのはかの有名なヘルマン・フォン・オッペルン・ブロニコフスキー大佐だったのである! 逃げても無駄ですのよ!
そして参加した主要な作戦の全てでキャスティングボードを握ってかつ負けるというジンクスを遺憾なく発揮し、たった一日で部隊を半壊状態にされてしまうのだった・・・。やはり勝てませんわね・・どうしてなんですの?
6月6日に上陸を果たした連合軍のイギリス軍部隊はオーヴァーロード作戦の主目標の一つ、バス=ノルマンディー地域圏の首府、カーンを目指して進軍していた。 モントゴメリーは北アフリカで名を馳せた「デザート・ラッツ(砂漠の鼠)」こと第7機甲師団を進発させる。 カーン前面に展開するドイツ装甲教導師団と正面からぶつかることを避け、側面へ回り込んで攻撃しようと目論んだためだ。 「パーチ作戦」と名づけられたこの作戦に基づき、第7機甲師団は順調に進軍し、1944年6月13日にはカーン南方のヴィレル・ボカージュ村を占領、一時休止に入った。 このまま何事もなく作戦は推移し、カーンへの側面攻撃は無事に成功するものと思われた。
しかし、この村にはSS第101重戦車大隊所属の世界最強の戦車乗り「ミハエル・ヴィットマン」SS中尉が迫っていたのである・・・・。
はっきり言って、ヴィレル・ボカージュの戦いはヴィットマンのヴィットマンによるヴィットマンのための戦いだったといえる。 彼はたった一輌のティーガーⅠで突撃し、戦車12輌、ハーフトラック10輌、豆戦車4輌、偵察車両1輌を撃破してみせたのだ。 その後被弾して動かなくなった戦車を捨て、バイエルライン率いる装甲教導師団と合流し再度ヴィレル・ボカージュに突入、第7機甲師団は大損害を受け撤退を余儀なくされたのである。 多数の機甲戦力を失い、作戦継続が困難になった連合軍の損害に比べて、ドイツ軍の損害はティーガーⅠが6輌(うち3輌は修理され戦線復帰)、IV号戦車5輌でしかなく、 もはや連合軍はただのやられ役、ヴィットマンの引き立て役でしかないという有様だった。 この戦いとヴィットマンの活躍はナチスによって宣伝され、ヒトラーが「ちょwwwヴィットマンツヨスwwテラツヨスww」とか言いながら柏葉剣付き騎士十字章を自分で授与してみたりと アメリカの参戦により絶賛大暴落中だったドイツ国民の士気を高めるために大いに活用された。
この戦いの後、元々「石橋を叩いて渡る」ほど慎重だったモントゴメリーは「石橋を壊して架橋してから渡る」ほど、慎重さにバツグンの磨きがかかってしまう。 さあ、落ち着いて・・慎重にいくわよ 兎にも角にも「エプソム作戦」によってドイツ軍を退け、やっとの思いでカーンに攻め込んだもののドイツの猛反撃と大雷雨によって「グッドウッド作戦」の終結までには7月19日までかかり カーンから完全にドイツ軍の残存勢力を排除できたのは8月に入ってからだったと言われ、実に二ヶ月もの時間を要してしまったのである。 このことからモントゴメリーは「アイツはもうやる気ないんじゃないの?」と周りから白い目で見られるようになってしまったそうな。 なによなによ!こんなの予定外よ! 進軍速度のあまりの遅さに、過激すぎる性格から更迭されて放置プレイの真っ最中だったモンティのライバル、パットンが引っ張り出された、なんてこともあったりする。 「パットン将軍ー!次はどこまでいくンすかぁー!?」 「Be audacious!ベルリンに決まってるヨー!ヒトラーの(ピー)野郎をワタシがやっつけてやるネー!」 「おぉおぉぉ!!!(歓喜)」
ボスへのルートはA→B→C→DかA→B→E→C→Dのみ。 K,F,Mに逸れた場合はその時点でボス到達が不可能になる。特に理由が無いようであれば、撤退してもいいだろう。 Fの策源地は燃料が+5もされる美味しい場所だがなかなか到達できないので、 歩兵で手早く占領しておきたい。
ドロップ
ファレーズの業火
イギリス軍がカーン攻略に手間取っている頃、ブラッドリー率いる米軍第一軍はシェルブールを6月27日に占領していた。 更にドイツ軍の防衛線を破るべく「コブラ作戦」を発動。念願の現場復帰が叶いはっちゃけるパットンの第3軍と2000機もの爆撃機は、バイエルライン指揮下の第130戦車教導師団へ猛攻をかけた。 当時既に制空権を完全に奪われ、対空戦力にも乏しかったドイツ軍は、成すすべなく一方的に蹂躙されてしまう。 バイエルライン曰く「少なくとも半数以上の戦力が奪われました。兵士は皆、死んだか負傷して埋もれたか・・・発狂してしまったのです・・・」という程の壊滅的被害だった。 ノリノリのパットンは「コレがステイツ版Lightning war(電撃戦)ヨー!!」とばかりに要所であったアブランシュを速攻で占領、 対するドイツ軍B軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥は、ヒトラーに撤退を進言するも当然却下され、逆に反撃作戦「リュティヒ作戦」の実行を余儀なくされてしまった。 東部ではソ連の「バグラチオン作戦」による大攻勢が始まっており援軍を送る余裕は皆無、こちらは減っているのに相手はガンガン増えていく・・ 挙句の果てにドイツの虎の子の暗号「エニグマ」は既に解読されていて、その反撃作戦も全て連合軍に筒抜け・・・。 このような状況で反撃など成功する筈もなく、リュティヒ作戦は失敗に終わり、ドイツ軍の状況は深刻さを増し、ついに防衛線は崩壊するのである。
そしてフランス西部のドイツ軍を殲滅すべく、連合軍はファレーズとモルタンの間にドイツ軍を追い込み包囲するため行動を起こした。 やっとカーンでの戦闘がひと段落着いたイギリス・カナダ軍は8月7日に「トータライズ作戦」を実施、満身創痍のドイツ軍の脱出路を塞ごうとしたが反撃に遭い失敗する。あれ・・? しかし久々の勝利に沸くドイツ軍上層部の慢心を突く形でアメリカ軍が進軍し、ドイツ軍は包囲の網にとらわれてしまった。 ここへきてドイツ軍は、もはや反撃は勿論、防戦も困難な状態に陥ったわけだが、ヒトラーの命令は「絶対反撃」でありドイツ軍は絶望的な攻撃を続けるしかなかった。 兵たちが連合軍の苛烈な砲爆撃によって磨り潰されていく地獄を見たクルーゲは16日、ついにヒトラーに対する抗命を決意、部隊に撤退を下命する。 これによって7月に起きた国防軍によるヒトラー暗殺計画「ワルキューレ作戦」の影響冷めやらぬドイツ本国は、クルーゲ自身も関わったのでは?と疑念を向け、クルーゲは司令官職を解任されてしまう。 本国に送還される最中、クルーゲはヒトラー宛に戦争の早期終結を嘆願する遺書を残し、失意のうちに服毒自決を遂げるのであった。
連合軍の対ドイツ軍包囲網「ファレーズ・ポケット」はわずか幅12km、深さ9kmにまで狭まっており、中には10万ものドイツ兵が閉じ込められていた。 しかし雪隠詰めのドイツ軍にもほんの少しの幸運が、まさに地獄に下りたヤコブの梯子のような奇跡が残されていた。 連合軍上層部、ブラッドリー、パットン、モントゴメリーの確執である。 元部下のブラッドリーに使われるのが気に食わず勝手するパットン、そのパットンをどうしても出し抜きたいモントゴメリー。 そしてその仲裁と米軍と英軍の調整に追われるアイゼンハワーと、正に船頭多くして戦艦が山を全速力で登っていき、主砲を四方八方撃ちまくって 足らなくなった砲弾を奪い合っているような、混沌とした状態だったのだ。 「パットンの15倍の戦力を用意してくれないかしら!?」「コッチは20倍ネー!Open fiery!」 その結果として現れたのがわずか10kmほどの包囲線の開口部である。 ここでもやはり「お前の進軍が遅いからだ!」とモントゴメリーが指弾されている・・カワイソス 17日、残存ドイツ軍はそこを守るポーランド軍に対して最後の攻撃を敢行し撃破、セーヌ川を渡り退却を成功させた。 だが脱出に成功したのは半分程度で、残されたドイツ軍は連合軍の攻撃に22日まで晒され続け、ドイツ軍B軍集団は1万人以上の戦死者と4、5万にも及ぶ捕虜を出し、装備の殆どを失ってしまうのである。
破壊されつくしたドイツの車両群、砲爆撃によって滅茶苦茶に掘り返された地面、累々と横たわる死体の山と、泥濘に混ぜ込まれたバラバラになった人の身体の一部・・・ そのあまりにも凄惨な「ファレーズの地獄」を視察したアイゼンハワーは、ショックのあまり絶句してしまったという。
編成に重戦車を組み込んでいればスタート地点からAへ、その先のB上下の分岐は指揮車の有無が係る。 どちらも編成にいない場合はFルートへ向かうが弾薬+5というオイシイ策源地があるので全く無駄足でもない。 指揮車がいないよ!という人も4-1とこのマップでドロップするので、AやFを繰り返して稼ごう。経験値もいいので育成にも向いたマップ。 どちらも敵が弱めだが、どちらかと言えば敵重が1体で済み制圧射撃の一切飛んでこない重戦車有りルートのAの方が楽か。 ボスへ向かうルートは編成によりほぼ固定されるため気楽だが、道中5戦が確定している。 このためルート固定要員の重戦車はそのままだと4戦目で燃料と弾薬が尽きてしまい、ボスマスでは攻撃に参加できなくなってしまう。 同じくルート固定要員の指揮車は豊富な装備欄を持っているので、研究で弾薬箱や増槽を手に入れて装備させよう。 ボスの対地攻撃機は対空戦車がいれば雑魚だが道中を考えると加えにくい。重戦車で攻撃を受け、対空榴弾を装備した牽引砲で撃墜する手もある。 (対空榴弾は一部の牽引砲が改良時にもってくる) Oの策源地はCかKからのみ到達できる。指揮車と重戦車×2以上を入れた編成だと100%策源地へ向かうことになる。 突撃砲や駆逐戦車は「占領:不可」だが改良した重戦車は「占領:良」なので、一気に制圧するなら改良した指揮車と重戦車、歩兵で固めて行ってしまおう。 指揮車無しで重戦車有りだとKからMとLに行ける。マップ埋めを狙うなら参考にして頂きたい。
ボカージュの戦い
ボカージュとはフランスの農地によく見られる、耕地を囲むように植林された畦畔林(けいはんりん:あぜ道に作られた林)のこと。 風によって土の飛散を防ぐ防風林として、または伐採して薪として活用するなど、日本における里山のようにフランスの農民の生活に深く根ざした森である。 かつてガリアと呼ばれていた頃には国土の90%が森林に覆われ、樹木を信仰するドルイド達が木々に祈りを捧げていたフランスの地だが、 キリスト教徒によって信仰破壊の一環として森林が破壊され、その後の木造船大量製造のための乱獲などを経て、フランスの森は現在ではわずか26%程に減ってしまった。 それでも何気にフランスには緑が多いようなイメージがあるのは、このボカージュの存在あってこそ。まさにフランスの原風景の一部とも呼べる森なのである。 ・・・と、これだけならとても牧歌的でα波出まくりのいい感じの森!で終わりなのだが、軍隊にとってはそうはいかない。 森とは軍事的には障害であり、身を隠せる掩蔽地ともなる重要な地形である。 そしてボカージュはフランスに上陸し軍を進める連合軍にとっては障害となり、防戦に回ったドイツ軍にとっては待ち伏せ拠点や戦車壕にもなる防御陣となったのだった。
マップはいわゆる「パリ開放」として知られる戦いのもの。 当初、連合軍総司令アイゼンハワーは「優先すべきはドイツ軍の駆逐と、ベルリンの制圧ですねぇ~」と考えており、とりあえずパリはスルーすることにしていた。 パリを守るドイツ軍には「パリ落とされるとかフランス落とされんのと一緒だろJKww死守ねww」と毎度のヒトラー死守命令が出ており、 そこを攻撃するのは連合軍にとってはまさにやぶ蛇でしかない。それはまぁパリを開放してドイツ軍を追い出せれば、ヒトラーやナチスに精神的打撃を与えられるだろう。 だが戦略的にはそれ以上の価値が特にあるわけではなく、徒に物資や兵士を消耗するだけで、むしろベルリン制圧を急がなければソ連に先を越される恐れもあり得策とは言えなかった。 取り敢えずは一部隊を派遣して周囲を包囲、その間にドイツが降伏すればよし、ヴィシー政権が転覆したりしてもよし、というプランだったのである。
当然そんな連合軍の消極的な姿勢が面白くないのは自由フランス軍を率いるド・ゴールである。 パリではノルマンディー上陸後、レジスタンスによる対独抵抗活動が活発化していた。 今のところ伝え聞く情勢では、自分の息の掛かった組織であるフランス解放軍(FFI)が頑張っているようだが、ほかの共産系ゲリラも活発に活動している。 「このままではパリ解放後の私の地位が危うくなってしまうわね・・私が、私こそがフランスなのよ!」とド・ゴールは焦っていたのだ。 早速アイゼンハワーにパリの早期解放を要請するが、「そのうちにね~」とのらりくらりとかわされてしまう。 そもそもド・ゴールはこれまでにもアイゼンハワーは勿論、英国首相チャーチルや米大統領ルーズベルトに対してまで、恫喝に近い強い態度で要求を押し通したりしていて、 特にルーズベルトからは「国民から選ばれたわけでもないくせに・・形式にこだわる旧世界的独裁者め( ゚д゚)、ペッ」と蛇蝎の如く嫌われており、連合軍内での評判も決して良いものではなかったのだ。 まぁド・ゴールの第一の目標は祖国フランスの奪還であり、他の連合国の意図など当然埒の外。その決意が傲慢とも取れる行動に繋がっていたのだろうが。
その決意を示すかのように、ド・ゴールはこの程度で諦めはしなかった。 「連合軍が動かないのならば、私たちだけでも往くわね」とアイゼンハワーに脅しをかけ、フランス第2機甲師団を率いるルクレールも上司の意図を汲んで独自に出撃の準備を整えていた。 そして仕上げとばかりに連合軍第12軍を率いるブラッドリーの元にド・ゴール子飼いのFFIのメンバーを面会に向かわせ、パリの現状を報告させたのだ。 「レジスタンスの蜂起は大成功!ドイツ軍はもういませんぜ!パリも殆ど制圧しちったし!皆さんにはドイツ軍がどさくさでパリを壊すのを止めて欲しいんでさぁ!」 ・・・勿論真っ赤な大ウソである。 しかし度重なるド・ゴールの要請を受けて 精神的に追い詰められて いたアイゼンハワーとブラッドリーはこの情報を信じ、軍の派遣を決定したのだった。 こうしてド・ゴールの努力 と恐喝 のかいあって、8月23日、第12軍指揮下のアメリカ軍第1軍と、フランス第二機甲師団が所属する第5軍がパリに向けて進軍を開始したのである。 因みにアイゼンハワーはモントゴメリーにも参加を要請したが断られている。 遅い遅いとバカにし過ぎちゃったからじゃないですかね・・・
連合軍は道中、フランス人たちの猛烈な歓迎やドイツ軍の抵抗、ルクレールが勝手に設定したルートのせいで味方同士で渋滞が起こったりと色々あったりしたものの、24日にはパリに到着。 25日には連合軍はパリに突入し、ドイツ軍パリ防衛司令官コルティッツ大将はついに降伏を決意した。 コルティッツ大将が詰めていた司令部のあるオテル・ムーリスにフランス兵が突入した際 「おっ、お前!ドイツ語は話せるのか!?」というテンパったフランス兵のトンチンカンな質問に「えー、貴官よりはうまく話せるよ?たぶん」とコルティッツが答えるというコントのような一幕もあったが、 パリ市街ではそれほど大規模な戦闘も無くドイツ軍は降伏、ついにパリは開放されたのだった。
指揮車抜きで北へ、 指揮車+重戦車入りの編成で中央へ、 指揮車入り、重戦車抜きの編成で南へ向かう。 1戦目から敵部隊に航空機が出てくるため、(4-2などで)対空戦車を入手できていない場合はかなりつらい戦いになる。 このマップから航空機関係もドロップするので周回するなら対空戦車は必須なので手に入れておこう。 なお、航空戦フェイズの対空射撃は敵航空機の目の前に対空戦車を置く必要はない。 対空車両と指揮車を入れる場合は1と3に配置し、常に1と敵航空機が対峙する陣形を選ぶことで駆逐戦車と対戦車自走砲による先制事故は防げる。 3戦目のみ運が絡むため、事故を嫌うなら指揮車を抜いて北ルートを使おう。
指/航/航/重/重駆で指揮を敵航空機の前に置くようにすれば簡単に周回できる(コメント欄より抜粋)
秋の霧作戦
1944年9月、東部戦線ではバグラチオン作戦による大規模侵攻の息切れが、西部戦線ではマーケット・ガーデン作戦の失敗とそれ以前からの補給負担が重なり、 ヨーロッパの戦いは小康状態にあった。 ヒトラーはこれを好機とみなし、持てる戦力を集結させて西部戦線に大打撃を与え、より有利な条件での講話へ持ち込もうと考えた。 講話により一致団結して、欧州へ流入する共産主義の侵略に対抗しようというのだ。 軍部は当然大反対した。あまりにも都合の良すぎる考えだし、作戦を実行する戦力も不足している。 しかし強く言い出せるものは居なかった。 7月20日、通称「ワルキューレ計画」によるヒトラー暗殺失敗により軍内部は粛清と厳しい監視の目が敷かれ、 関与を疑われたロンメルが自決したこともあり、表立ってヒトラーに反対できる人物は少なくなっていた。 結局、攻勢は決定されることになる。
一方の連合軍側も自体は少々深刻であった。 ノルマンディーへの上陸以降、大規模部隊の侵攻により前線は大きく進み、8月末にはパリが開放され、 このままの勢いならクリスマスには戦争が終わるという楽観的な見方が広まっていた。 しかしこの大部隊を支える動脈というべき補給線が完全にパンクしてしまう。 当初予定していた軍港が機能せず、仮設港は嵐により破壊され、供給量は当初予定を下回っていた。 にも関わらず、パリを開放したことで400万からなるパリ市民への食料その他生活必需品の配給を行うなど、需要量は増大する一方だったのだ。 上陸後の快進撃が敵の抵抗ではなく味方の息切れという事態を受けて、英米ともに軍部は政治的な圧力に曝されることになる。 特に各国の経済的な負担は限界に達しており、戦争終結は急務であった。 これらの条件から強行されたマーケット・ガーデン作戦はしかし失敗に終わり、連合軍は補給線のバイパス手術を行いながら次の一手を思案することになる。 この間、ドイツ軍の反撃を想定し諜報活動が行われたが、結果は「ドイツ軍の通信に活発な動きは見られず」というもので、 連合軍はドイツの大規模反抗を想定していなかった。 さらに、仮に反抗があったとしてもその進行方向はドイツとフランスが直接国境を接する南部、あるいはオランダ・ベルギーを経由する北部であり、 機甲部隊の進軍が困難な中央部、アルデンヌの森方面はありえないだろうという致命的な判断ミスを犯していた。 4年前、まさにフランスが敗北した原因こそが、アルデンヌの森を抜けてきた機甲部隊だというのに!
さてドイツ軍はやると決めたからには粛々と準備を進めていた。 幸いにもヒトラー暗殺未遂事件の結果、防諜が強化されたことで連合軍に情報が漏れることは減っていた。 そう、連合軍はドイツ軍の動きが減ったと勘違いしていたが、実際は通信傍受できなくなっていただけだったのだ。 (自国が近いドイツ軍は設備の整った電話やテレプリンターなど傍受の難しい機材を多用していた) 更に秋の濃い霧がドイツ軍の活動状況を偵察機から隠してくれた。 かくして1944年12月16日、ドイツは大反抗戦を開始する。 防衛策と思わせるため、ドイツ側の作戦名は「ラインの守り」、 連合軍側からは形成された突出部(バルジ)への攻撃から、「バルジの戦い」と称される一連の戦闘は、 雪の降りしきるアルデンヌの森を抜け、かつてフランスへ侵攻したルートを取って始まった。
ドイツ軍の侵攻を受けた連合軍は飛び上がった。 マーケット・ガーデン作戦に続き、ドイツにはもはや大規模な攻撃を仕掛ける戦力はないと見くびっていた故に先制攻撃を許したのだ。 しかし総司令官アイゼンハワーの決断は素早かった。 後方で再編中だった部隊を、構わず迅速にドイツ軍が形成した突出部へ送り込み、後続を断って被害の拡大を防ぐこととした。 パットンの第三軍に準備ができ次第直ちに突出部南方から攻撃し、開かれた突破口を閉じさせるとともに、 交通の要所バストーニュへ迅速へ展開できる部隊として、再編中の101空挺師団投入を決断。 当時101空挺師団は指揮官不在で、代理のマコーリフが指揮を取っていたが、命令によりそのままバストーニュへ進軍。 そこに立てこもって維持し続けることになった。
アルデンヌの森を抜けたドイツ軍は要所を制圧しつつ一路アントワープを目指した。 ここを制圧してイギリス軍に打撃を与え、「第二のダンケルク」ともいうべき撤退状況を作り出せば講話に持ち込めるとヒトラーは考えていた。 またこの奇襲に連合軍は総司令官が連携を取るのに時間がかかり、対応が遅れるという楽観的な推測をしていた。 更に作戦に必要な燃料などは途中の敵軍を襲撃して分捕らないと足りないというかなり危険な算段で動いている。 しかも重要拠点の一つであるバストーニュ攻略には機甲師団を振り分けても良いという指示まで下されていた。 結局、ドイツ軍の快進撃と突出部の形成はものの数日で息切れし、後方から次々と送り込まれた連合群の部隊に足止めを食らった。 さらにバストーニュは包囲したものの101空挺師団は頑強な抵抗を見せ、降伏勧告は「Nuts!」の一言で一蹴され、 ここに機甲師団を投入したため、結果的に機甲師団はバストーニュで足止めされることになってしまう。 その間、48時間という前代未聞の速度で準備を終えたエイブラムス率いる援軍が到着し、ドイツ軍の形成したバルジは徐々に追い詰められていく。
この間、ドイツ軍では前代未聞の大規模な欺瞞作戦のための部隊が投入された。 オットー・スコルツェニー率いるこの部隊による「グライフ作戦」は米軍に偽装した兵士と装備で敵中に忍び込み、橋の爆破や破壊工作を行う予定であった。 (もちろん陸戦条約違反であり、万が一捕虜になっても即処刑されてしまう重大な問題行為であったが、皆志願してこの任務についた) 結局作戦は早期に露見したため目標を達成することは出来なかったが、グライフ作戦の部隊規模を把握しきれなかった上、 捕まった兵士たちは混乱させるためあることないことデマカセを吹いたため(そして即座に処刑されて真偽の確認が出来なかったため)連合軍は大混乱に陥った。 アイゼンハワーは暗殺を警戒して司令部に軟禁状態に置かれ、各地で急造の合言葉や常識問題が作られ引っかかれば容赦なく逮捕された。 検問に引っかかったブラッドリーがイリノイ州の州都を聞かれ「スプリングフィールド」と正解を答えたにも関わらず、 質問したMPはイリノイ州で最大人口だったシカゴを州都と勘違いしていたため逮捕されるという珍事まで起きた。
結局アントワープへ向かう進軍ルートも、ブラッドリー率いる第一軍とその後ろに控えるモントゴメリーの第二十一軍に阻まれ、 わずか半月あまりでドイツ軍の形成したバルジは消失し、いたずらに戦力と資源を消耗したドイツ軍は敗戦への道を早めてしまうことになる。 一方で連合群の損害も決して無視できるものではなく、死傷者は7万5000人にのぼった。
「ナチスが共産主義者を攻撃したとき、少し不安だったが自分は共産主義者でなかった。だから何も行動を起こさなかった。 次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動には移さなかった。 それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等を攻撃し、自分はその都度不安を感じはしたが、それでもなお行動に出る事はなかった。 ついにナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったために行動に出たが、その時には全てが手遅れだった」
ルター派の牧師、マルチン・ニーメラーの言葉である。 これは当時のドイツにおける一般市民の心情をよく表現しているともいえる言葉で、ナチスという病の熱に浮かれる多くの国民は、 実際に自分に累が及ばない限りはヒトラーやナチスが与えてくる悪い夢を、ただただ甘受していたのが実情だったのだ。 しかし1943年初頭に対ソ持久戦を可能にするため発動された「青作戦」が失敗、長期戦のための要衝だったスターリングラードが失陥し、第6軍壊滅というニュースがドイツを駆け巡ると、 それまでタイフーン作戦の失敗などにより「まぁ東方は厳しいみたいだけど、いままでなんとかなったしどうにかなるよねw」と思っていたドイツ国民も、 東方生存圏獲得どころか、ソ連に勝つことすら不可能であるという過酷な現実に直面し、愕然となってしまったのである。
こうして、それまで一部のマイノリティや被差別者が行っていた反ヒトラー、反ナチス運動が一般市民や国防軍内部にまで波及し、活発に行われるようになっていった。 政治団体ではナチスの政権掌握直後から弾圧され、反抗運動を行っていたドイツ共産党や社会党。 市民団体では、既に30年代からヒトラーユーゲントの厳しい教育統制に抵抗していた青少年団体「エーデルヴァイス海賊団」や、ミュンヘン大学の学生たちによる「白いバラ」などが有名である。 そしてドイツ国防軍の中にもそうした勢力が存在し、「黒いオーケストラ」と呼ばれていた。 だが、そうした活動は即座にゲシュタポによって察知され、すぐさま制圧されてしまう。関係者は逮捕され収容所に送られたり、処刑されてしまうということも常態であり、 反ナチス団体の考えとして「ヒトラー殺すべし。慈悲はない」という過激なモノが現れるのは当然の流れともいえた。 アイエエエ・・
しかし流石の悪運というべきか、ヒトラーは何度も立てられ実行された暗殺計画をヒラリヒラリとかわしてみせた。 パレード中に射殺しようとしたら見物人に阻まれて失敗、演説の最中に時限爆弾で爆殺しようとしたらたまたま早く切り上げて帰っちゃったので失敗。 チェコ攻撃に反対してクーデター起こして隙在らばぶっ殺す!と思ったらチェコ攻撃が回避されて計画がお流れ等々・・・。 そんな中実行されたのが「ワルキューレ計画」として知られる、国防軍内の反ナチスグループ「黒いオーケストラ(長いので以下黒オケ)」の暗殺計画である。
そもそものワルキューレ計画は『新兵の訓練などを行う国内予備軍を、沿岸防衛や連合軍の空挺部隊に対処できる実戦力として結集させる』というものだった。 国防軍内だけでの極秘の計画であることに目をつけた黒オケは、それを「予備軍による暴動や内乱の鎮圧作戦」へと修正し、 ヒトラー殺害後のドイツを速やかにナチスから奪還し、ナチスや親衛隊らを完全に排除、国内を少ない混乱で即時掌握するのに適した計画へと変貌させた。 具体的には、まずヒトラーを暗殺。次に「総統死亡により反乱の恐れあり」とかなんとか理由をつけて国内予備軍に連絡、ワルキューレ作戦を発動させる。 然る後に速やかにナチスや親衛隊を逮捕、拘束して暫定政権を樹立させる、という流れであった。要するにクーデターを起こそうというわけである。 ワルキューレ作戦は、本来司令であるフリードリヒ・フロム上級大将が権限を有するが、彼は黒オケへの参加を拒否していたため、同名のよしみで同軍参謀のフリードリヒ・オルブリヒト大将が行うことになった。 そして実行のとき。ワルキューレ作戦第一発目「閃光作戦」が発動するのである。
1943年2月、スターリングラード陥落を受けて、ドイツ軍はハリコフにてソ連軍を迎撃する作戦を立案。その陣中見舞いにヒトラーが中央軍司令部にやってくることになった。 勿論これは内部シンパの一人、カナリス国防軍情報部長の工作によるものであり、中央軍司令副官ヘニング・フォン・トレスコウ少将も黒オケのメンバーである。 3月13日、やってきたヒトラーの搭乗機に酒瓶を包んだ小包に偽装した爆弾を積み込み、帰路で爆殺すべく時限信管を起動させた。 飛び去っていく機体を目に、黒オケメンバーはオルブリヒト大将にワルキューレ作戦の発動を依頼、これで爆弾が起爆すれば作戦は完遂である。 「勝ったッ!!第三帝国完ッ!」と喜びに沸く黒オケメンバーだったが、一介の伍長から独裁者にまで上り詰めたチョビ髭さんの悪運は未だ尽きてはいなかった。 たまたま発生した乱気流を避けるために上昇した機体は、ロシアの冬将軍の寒気にモロに曝され、なんとその寒さで爆弾の信管が故障してしまったのである。 途中で失敗に気づいたために計画の露見だけは回避できたが、結局暗殺には失敗してしまうのだった。
黒オケが次の暗殺計画を必死に練っているうちに季節は流れて1944年6月・・・とうとう恐れていた米軍の参戦とノルマンディーへの上陸作戦が行われてしまう。 一刻も早くヒトラーを総統の座から引きずり降ろし、連合軍と講和しなければ、ソ連と合わせて二正面攻勢を受けることになるドイツには、もはや滅亡の道しか残されていない。 そして黒オケは大胆にも総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」会議室内での爆殺を計画、これが後に「7月20日事件」と呼ばれる暗殺計画である。 実はそれまでも幾度も暗殺の機会はあった。しかし「どうせならヒムラーとゲーリングの豚も排除すべきだ」と欲張ったのがいけなかった。 あれもダメこれもダメと言っているうちに、3回以上ものチャンスを逃してしまっているのである。 1944年7月20日。黒オケの中心メンバーの一人、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐は、仮にどんな状況であろうとも計画を実行する不退転の決意を固めていた。 それがこの戦争で大怪我を負いながらも生きながらえた、自身の宿命だと信じて・・・。 シュタウフェンベルクはヒトラーが既に座している、大本営会議室の大テーブルの下に時限爆弾入りのバッグを滑り込ませ、電話を口実に部屋を後にする。 暫くして轟音が鳴り響き、会議室は滅茶苦茶に破壊された。爆破成功である。 ここへきてついにワルキューレ作戦が実行に移され、各地の軍事拠点や政府施設、おもにゲシュタポ本部や宣伝省、放送局の占拠が急がれた。
だがしかし、ここでもまだヒトラーの悪運は尽きる気配を見せていなかった。 様々な偶然が重なり、至近距離で爆発したにも関わらずヒトラーは軽症で済んでしまったのだ。 ヒトラーの生存を知った予備軍司令フロム大将はワルキューレ作戦の実行を停止、予備軍司令部のあるベントラー街にシュタウフェンベルクが駆け付け、フロムを監禁し実行の指示を出し続けるも、 情報戦には一日の長があるゲッペルスやヒムラーによって実行していた部隊も抱き込まれてしまい、予備軍司令部もヒトラー支持派によって制圧され、クーデターは失敗に終わったのである。 シュタウフェンベルクをはじめとしたメンバーらは、フロムの独断による現地での即決裁判で死刑宣告を受けて翌日には銃殺され、国内予備軍司令部の中庭の露と消えた。 これがクーデターを知りながら黙認していたフロムによる「口封じ」だったのか、それともメンバーへのゲシュタポによる拷問を回避する「温情」だったのか、 はたまた自分を拘束してクーデターを起した黒オケメンバーへの「報復」だったのか、単にヒトラーへの「申し開き」の為だったのか、今となっては定かでないが、少なくともヒトラーは「口封じ」と受け取った。 フロムは軍籍と共にそれまでに得た勲章を全て剥奪されたうえで一般市民として裁判にかけられ、銃殺刑に処されてしまうのである。 その後も続々とメンバーが逮捕、処刑、あるいは自決し、中には療養中でまったく関係なかったにも関わらず自決させられたロンメルの姿もあった。
この事件の後、元々心身ともに不調だったヒトラーの体調は更に悪化、それに伴って他人に対する容喙を深め、極度の人間不信に陥ってしまう。 オカルトに傾倒し、誰の意見も聞かず、支離滅裂な戦争指示を行っては現場を混乱させるということを繰り返した。 そして徹底的、というよりも偏執的な弾圧と粛清の嵐に見まわれた軍上層部は、ヒトラーを恐れ何も意見できず、唯々諾々と指示に従っては徒に兵の命を散らしていったのである。
戦後、シュタウフェンベルクらは「ドイツの為にヒトラーに抵抗した英雄」として賞賛されるようになった。 国内予備軍司令部があったベルリンのベントラー街はシュタウフェンベルク街と改名され、司令部跡地にはナチスに立ち向かった人々の記録を伝える為にドイツ抵抗運動記念館が建てられた。 彼らが散った中庭には手を鎖で繋がれた若者のブロンズ像が置かれ、ここで「我が聖なるドイツ万歳!」と叫びながら無念の死を遂げた黒オケメンバーの霊を慰めている。 記念館には無料で入れるので、ベルリンを訪れた際には一度行ってみてもいいかもしれない。
重戦車を含む編成で西、それ以外高い確率で東。 航空機+重戦車で西策源地(Aルート)確定。 ボスまでに4戦を経由するため、安定した勝利を求めるなら弾薬箱はほぼ必須。
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